「『関白宣言』は女性蔑視」と騒がれたとき、女性初の国会議員・加藤シヅエが庇ったのはなぜか?加藤タキ×さだまさしが振り返る『関白宣言』騒動
10月25日に歌手として50周年を迎え、記念コンサートツアー中のさだまさしさん。今回はそんなさださんと、国際間のコーディネーターとして長年活躍し、現在は国際NGO 認定NPO法人 AAR Japan[難民を助ける会]の副会長を務める加藤タキさんの対談のようすをお届けします。加藤さんは、「『関白宣言』でまさし君が叩かれたとき、メディアを通じて母が吠えてた」と言っていて――。 【写真】加藤タキさんとさだまさしさん。加藤シヅエ先生のお写真と * * * * * * * ◆『関白宣言』がきっかけに まさし シヅエ先生と最初にお目にかかったのは1979年でしたね。 タキ 『関白宣言』のあとのコンサート。80年になってたかもしれない、新宿の東京厚生年金会館でした。 まさし 間に立ってくれた人がいて、その方にお願いしてご招待させていただいて。 タキ 『関白宣言』でまさし君が叩かれたとき、メディアを通じて母が吠えてたものだから。音楽評論家の安倍寧(やすし)さんが新聞に書いてくださって。「加藤シヅエがさだまさしを応援」とか。 まさし そうそう。応援してくれる人が少なかった頃ね。 タキ 当時、『関白宣言』は女性蔑視で許せないと女性団体が騒ぎを起こしたとき、母が声高にメディアを通じて訴えたの。みんな行間をどれだけ読んでるのかって。 まさし 行間読んでくれる人なんかいませんよ。僕は『関白宣言』は見事なエスプリだと思っていたんだよ(笑)。それを笑ってくれずに怒るっていうのでビックリしちゃって。 あのときには、そうね、笑ってくれたのは遠藤周作先生と森繁久彌さんと山本健吉先生くらいなもんだったね。「お前が言いたいのはここじゃないのはわかってる」という。あとは、行間をちゃんと理解してくださったのは加藤シヅエ先生以外ないね。 シヅエ先生が『関白宣言』のことをすごく庇ってくださってね。
◆「行間を読みなさい」 タキ 新聞に投稿したの。それで、ラジオでもテレビでも取材されて。母は一貫して「何をみんな読んでいるのですか。何を聞いているんですか」と言っていた。ちょうど母は父を亡くしてから間もない頃だったの。 78年9月に、父は風邪で病床について1ヵ月半で亡くなっちゃったから。そんなこともあって本当はすごい気落ちしてたときに、母のそれこそ存在理由じゃないけど、「私のファイティング・スピリッツがまたムクムクと」って。 それに父は最後に母の手を握って「ありがとう」とつぶやいて亡くなった。その情景に『関白宣言』の最後の歌詞がダブったということもあったと思う。 まさし でも、僕にしてみたらね、いきなり加藤シヅエですよ。加藤シヅエといえば日本の女性国会議員の第一号ですよ。つまり「女性の闘士」というふうに書かれるわけじゃないですか。女性の闘士が『関白宣言』を褒めるというこの感覚がね。 僕の中には、そのときまでは、女性代議士とか、女性の闘士というものに対するアレルギーみたいなのがあった。 それは別に女性が闘うのが正しい、間違ってるということではなく、この人たちとあまり関わりたくないという感覚を持っていましたが、こんなに公平で客観的な、自分で自分を笑うようなエスプリまで理解できる女性がいて、それで、まさに「行間を読みなさい」みたいなことを言ってくださったことに、本当にショックを受けました。 理解していただくってことがこんなに力が湧いてくることなのかと思いました。シヅエ先生の言葉ってやっぱり大きかったですね。で、その後シヅエ先生のお誕生日にご自宅に伺った。