甲子園球場100年の歩み~高校野球、阪神タイガース、そして驚きのスポーツも!
甲子園のアイドル誕生
戦後、野球大会は中等学校から高等学校へとなり、甲子園球場は"高校野球の聖地"と呼ばれるようになる。球児たちの熱戦譜はあまりにも多い。筆者が、最初に甲子園を意識した高校野球の大会は、1969年(昭和44年)の夏だった。青森県代表の三沢高校と愛媛県代表の松山商業高校が戦い、延長18回で決着つかずに翌日の再試合となった。三沢高校のエース、太田幸司投手はひとりで投げ抜き、そして敗れた。しかし、その姿に全国のファンから人気が集まった。甲子園アイドルの第1号だった。1980年代のPL学園高校の桑田真澄投手と清原和博選手の"KKコンビ"による高校生離れした活躍、さらに"平成の怪物"と呼ばれた1990年代の横浜高校のエース松坂大輔投手のノーヒットノーランなど、甲子園球場での高校野球にそれぞれの思い出を重ねる人も多いことだろう。
"野球の神様"もプレーした
高校野球だけではなく、米国の選抜チームも甲子園球場で試合をした。1934年(昭和9年)、日本代表との試合で、あの"野球の神様"ベーブ・ルース選手も来日して、試合に出場した。しかし、球場は、サッカー、ラグビー、陸上などもできる設計で、両翼が110メートルと広い。そのためベーブ・ルースもホームランは打てなかった。
猛虎打線3連発の伝説
ところが、そんな広い球場で、観客の度肝を抜く快挙を見せたのが、甲子園球場を本拠地とするプロ野球の阪神タイガースだった。猛虎打線のクリーンアップによる、いわゆる「バックスクリーン3連発」である。1985年(昭和60年)4月17日、讀賣ジャイアンツとのゲーム。7回裏に槙原寛己投手から、ランディ・バース、掛布雅之、そして岡田彰布の3選手がバックスクリーンとその付近に3者連続でホームランを放ったのだった。今も多くの野球ファンの語り草となっている。その年にタイガースは、21年ぶりのリーグ優勝と初の日本一を果たした。チームに勢いをつけた快挙だった。
驚きの冬季スポーツも!
高校野球やプロ野球だけではなく、甲子園球場はアメリカンフットボールの大きな舞台でもある。毎年12月に行われる、全日本の大学選手権大会の決勝「甲子園ボウル」。東西の大学の雄がまさに"激突"する歴史と伝統の一戦だ。ユニークなところでは、スキージャンプ大会の歴史もある。1938年(昭和13年)1月、甲子園球場では、全日本選抜スキージャンプ大会が開催された。雪を新潟県のスキー場から運び込んで、グラウンドに大きなジャンプ台を作ったそうだ。この他、野外オペラ、コンサート、花火大会など、甲子園球場は、数々のイベントの舞台としても多くの人々に愛されてきた。 100歳を迎えた阪神甲子園球場では、まず第106回の全国高等学校野球選手権大会が開催される。猛暑の中、各地の予選を勝ち抜いた49校の高校球児たちは、101年目のページに、どんな熱戦の歴史を刻むのだろうか。 【東西南北論説風(512) by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】 (参考)「阪神甲子園球場100周年記念サイト」 「甲子園ヒストリー/一般社団法人にしのみや観光協会」
CBCテレビ