「今年こそ絶対、ダイエットに成功する」 新年の目標が3日坊主に終わってしまう根本的な理由
■強すぎる信念は、実はもろい それで結局、運動そのものをやめてしまう。後に残るのは「~べきなのに、できなかった」自分、自尊心が傷ついた自分だけです。 つまり、こういうことです。 強すぎる信念は、コンクリートのように硬そうに見えてその実、もろいのです。しなやかさがなく、一定以上の力が働くとポキンと折れてしまいます。 案外、大した信念もなしに「まあ、なんとなく気持ちいいから」で身体を動かせる人のほうが、運動も続きやすいという話もよく聞きます。
思い通りにいかないのは、運動だけではありません。 むしろ、この世は、自分の思い通りにいかないことばかり。 お釈迦様は、人生は苦であるとして、避けては通れない生老病死を「四苦」と呼びました。生きること、老いること、病むこと、死ぬこと、どれをひとつとっても、思い通りにはいかないのが当たり前。 「こうあるべきだ」と願っても、どうにもならないことがあるのです。 どうにもならないことは「ああなりたい。こうなりたい。ああすべきだ。こうすべきだ」といった執着を捨て、そのまま受け入れるほかありません。
そのあとにできることはといえば、「どうにかなるさ」とつぶやいて、状況に流されることだけ。 ■空を見上げ「どうにかなる」とつぶやく このようなしなやかな精神を、禅では「柔軟心(にゅうなんしん)」と言います。状況に流されるといっても、「そのまま流されていろ」という話ではありません。 いったん流されてみることで新たに見えてくるものがあると言いたいのです。 「~すべきだ」といった固定観念に囚われていると、視野が狭くなり、マイナスの状況をプラスに転じるための一手も見つけられません。
やわらかな心とは、物事をさまざまな角度から眺められる自由な心のことでしょう。 そのためには「ああなりたい。こうでないといけない」という執着から一時でも離れてみること。 コンクリートの硬さではなく、竹のようにしなやかな心を養うこと。それは、決まった姿形を持たず、状況にあわせて姿を自在に変えられる心とも言えます。 ああなりたい。こうなりたい。ああすべきだ。こうすべきだ。そんな思いがあなたを追い込み、息苦しさを覚えたときは、ひとまず立ち止まりましょう。そうして空を見上げ、「どうにかなる、どうにかなる」とつぶやくのです。