<勝村政信>蜷川幸雄さんの劇団での壮絶な体験 最後は“師匠と弟子”ではなく“同士”の関係に 「徹子の部屋」で
俳優の勝村政信さんが、12月5日放送の黒柳徹子さんの長寿トーク番組「徹子の部屋」(テレビ朝日系)に出演。芝居を始めたころや演出家の蜷川幸雄さんの思い出などを語った。 【写真特集】勝村政信、28歳の愛娘に腕を振るって朝は弁当づくり 「徹子の部屋」で
芝居をやりたいと思い、俳優座と無名塾と文学座だけは知っていたため、場所を知っていた俳優座に行き、鉄の扉を少し開けたら「俳優座」という文字の入ったTシャツを着た怖い人たちが大勢いた。ここじゃないと俳優座はあきらめ、募集をしていた無名塾を次に受けてみた。3000人ほどの応募者の中から2人か3人しか採らないという中、2次くらいまで行ったところで、創設者の宮崎(仲代)恭子さんに「あなたたちは力を持ってるから、どこに行っても通用します」と言われた。「入れていただけるんだと思ったら見事に落ちまして。うそつきって、思ってしまいました」と話す。
文学座もダメだったが、蜷川さんの劇団が募集していると友人に教えてもらい、受けに行った。当時蜷川さんは家族で「ケロッグ」の宣伝をしていたので、世界的な演出家だとは知らず、「ケロッグのおじさん」だと思っていたが、「受けたらなぜか通ってしまいまして。今に至ってます」と語る。
蜷川さんは当時厳しく常にイライラしていた。灰皿には4、5本のタバコがあり、火を消さずに次をつけ、すごい勢いでタバコを吸っていた。大量の胃薬を飲みながら、ずっとしかめっ面で、怒鳴っていた。年を取ってからはだいぶ優しくなった。物を投げるタイミングも考えていたり、メディアが来た時は多めに投げたりしていた。「自己プロデュースとか全体の演出家としても素晴らしかったんですけど、当時からプロデューサーとしてもすごかったですね」と振り返る。
当時は怒鳴られてばかりで嫌な思い出しかなかったが、蜷川さんのところを一度離れ、また一緒にやるようになってからは、蜷川さんが怒っていたり言っていたりしたことが、いろいろな本を読んだりしたお陰で理解できるようになった。「僕をシェイクスピアで呼ばないで、新作だけやらしてとわがままなお願いをして、20 年くらいずっと一緒に新作をやった」という。最後は「師匠と弟子」というより「同士」のような関係になったと語る。