生存者全員が力を合わせて「不可能を可能に」した…世界海難史上に異彩を放つ「名取短艇隊」帰還の一部始終
私が2023年7月、上梓した『太平洋戦争の真実 そのとき、そこにいた人は何を語ったか』(講談社ビーシー/講談社)は、これまで約30年、500名以上におよぶ戦争体験者や遺族をインタビューしてきたなかで、特に印象に残っている25の言葉を拾い集め、その言葉にまつわるエピソードを書き記した1冊である。日本人が体験した未曽有の戦争の時代をくぐり抜けた彼ら、彼女たちはなにを語ったか。 【写真】敵艦に突入する零戦を捉えた超貴重な1枚…!
多数決で動いていたなら、命はなかった
いまから80年前の昭和19(1944)年8月18日、フィリピンのマニラから、米軍による攻略を間近に控えたパラオ諸島へ、糧食や医薬品、弾薬、航空魚雷などの緊急戦備物件と人員を輸送中の軽巡洋艦「名取」は、フィリピン・サマール島東方300浬(カイリ・約556キロ)の海域で、米潜水艦「ハードヘッド」の魚雷攻撃を受けて撃沈された。 「名取」は「五千五百トン型」と呼ばれる日本海軍の主力軽巡洋艦の1隻で、14センチ砲5門、61センチ魚雷発射管8門ほか対空火器を備え、竣工後22年を経た老朽艦ながら、それまでつねに第一線にあって活躍を続けていた。 沈没したとき、艦長・久保田智大佐以下約300名の乗組員が艦と運命をともにしたが、生き残った者のうち205名は、カッター(短艇・漕走、帆走のできる木製ボート。長さ9メートル、幅2.45メートル、重量1.5トン)3隻に分乗して脱出。 そのなかで最先任者(海軍での序列がいちばん上)であった、当時満26歳の航海長・小林英一大尉は、先任将校として「軍艦名取短艇隊」の編成を宣言し、そのリーダーシップのもと、生存者は秩序を保ったまま櫂(かい)を漕ぎ続け、ほぼ東京-神戸間に匹敵する距離を航破して、13日めに自力でフィリピン・ミンダナオ島北東端のスリガオにたどり着いた。途中、「名取」被弾時の負傷や衰弱のため12名の死亡者を出したが、193名が友軍に救助された。 この「名取短艇隊」の帰還は、運を天に任せての漂流の結果ではなく、生存者全員が力を合わせて運を切り開き、不可能を可能にした点で、世界海難史上に異彩を放っている。 「団体での行動を決めるのには、『決断』『決裁』『多数決』と三つの方法がある。『決断』はリーダーが自らの意志で決めることで、『決裁』は、幕僚の複数の案からリーダーが選び出すことです。 戦略は『決断』によるものが望ましく、戦術は『決裁』でもかまわない。旅行の行き先など、どちらでもよい場合なら、『多数決』でも差し支えありません。戦後は、民主主義の名のもとに、何ごとも多数決が最善の方法であるかのように思われがちですが、必ずしもそうではありません。もし、短艇隊が先任将校の決断ではなく、多数決で動いていたなら、私たちの命はありませんでした」 と、松永市郎(1919‐2005)は言う。松永は当時「名取」通信長の海軍大尉で、「名取」沈没後は短艇隊の次席将校として小林大尉を補佐した。