夫にも子にも先立たれ・・・孤独な「尼将軍」北条政子の本当の名前は?
学校の教科書で習う偉人たちのほとんどは男性偉人。しかし、日本の政治史に変化をもたらす活躍をした女性偉人も多数存在しています。そんな日本の歴史上の〝ヒロイン〟ともいえる偉人の活躍について紐解いていきましょう!【歴史人Kids】 今から870年ほど前の1157年(保元2年)、 北条政子(ほうじょうまさこ)は伊豆の豪族・北条時政(ときまさ)の娘として生まれました。ただ、どんな幼少時代をすごしたのかはよくわかっていません。このときの北条氏は、伊豆の一豪族の立場にすぎませんでしたが、政子はそれほど不自由のない生活をしていたと考えられます。 そんな政子の生活は、京都から伊豆へ流されてきて、流人(るにん)としてすごしていた源頼朝(みなもとの よりとも)と出会ったことで大きく変わります。 頼朝は1160年、平治(へいじ)の乱で敗れて13歳で流されてきたのですが、北条氏は平氏から命令をうけ、その監視(かんし)役をつとめていました。そのとき、政子はまだ幼かったのですが、やがて時がたつと、ふたりは恋におち、夫婦となったのです。ふたりの結婚は1177年、頼朝31歳、政子21歳のこととされています。父・時政の反対をおしきっての結婚だったともいわれます。 それから3年後の1180年(治承4年)、頼朝は平氏打倒の兵をあげ、苦戦しながらも、5年かけて平氏を討ちほろぼしました。それから頼朝は鎌倉幕府をひらくのですが、政子とのあいだには4人(男2人・女2人)の子どもが生まれています。 当時、男性は多くの妻をもつのが普通で、女性もそれを当たりまえだと思っていましたが、政子はとても嫉妬(しっと)深い人でした。頼朝がほかの妻(妾/めかけ)の家にかよってばかりいると、政子は怒って、その妻の屋敷を打ちこわしに行ったということもありました。 そうして頼朝は、平氏を倒して征夷大将軍にのぼり、政子の実家・北条氏は頼朝に重くもちいられ、執権(しっけん)という鎌倉幕府の重要な職につくことになります。そのため、政子も幕府のなかで重んじられる存在となっていきました。 ところが1197年、政子は娘の大姫(おおひめ=20歳)に先だたれてしまいます。大いに悲しんだ政子は自分も死のうと思うほどのショックを受けたました。 さらに2年後の1199年、夫の頼朝が急死しました。まだ53歳。これからというときに夫まで失った政子は絶望のふちに立ちますが、まだ若い息子の頼家(よりいえ)や実朝(さねとも)のことを思って生きようと決めたといいます。政子は出家して尼(あま)になり尼御台(あまみだい)と呼ばれました。御台とは将軍の正室のことです。 頼朝のあと、将軍をついだのは長男の頼家です。まだ18歳でしたので、有力な御家人(ごけにん)の会議で政治をおこなうことになりましたが、やがて御家人たちと頼家が対立するようになりました。頼家は病気になり、自分の長男・一幡(いちまん)にあとを継(つ)がせようとしますが、一幡はまだ6歳。それに対し、政子の父・時政ら北条氏は頼家の弟・実朝をつぎの将軍にしようとしました。 けっきょく、頼家は伊豆の修禅寺(しゅぜんじ)にとじこめられ、そのあげく、何者かに殺害されました。三代将軍になった実朝は教養(きょうよう)に富み、京都の朝廷とのむすびつきを強めていきます。そのため、これをよく思わない御家人たちも出てきました。 とくに一幡の弟にあたる公暁(くぎょう)は、実朝を恨んでいたといわれます。父の頼家を殺したのは実朝だと信じていたからといいます。1219年の年明け、鎌倉の鶴岡八幡宮で、実朝は公暁におそわれ、殺されました。まだ28歳のことです。 こうして源氏の将軍は3代でおわり、以後の鎌倉幕府は朝廷から貴人をむかえいれて将軍につけるようになりました。しかし、将軍とはいえ名ばかりで、実験をにぎっていたのは執権の北条氏でした。 執権の地位は政子の父・時政、弟の義時(よしとき)、さらに甥(おい)の泰時(やすとき)へとつがれていきます。こうした政治の動きに、どこまで政子がかかわっていたのか。それはよくわかっていません。 ただ、幕府方と朝廷方が戦った「承久の乱」(じょうきゅうのらん。1221年)のときには、御家人を集めて、鎌倉方の団結をうったえる演説を政子はおこなったとも伝わります。 「皆、心を1つにしてよくお聞きなさい。頼朝様に対する恩は山より高く、海より深いものです。朝廷側に付きたいと思う者は、この場で宣言しなさい」といった、このような演説もまじえた団結により、乱は鎌倉方(幕府がわ)の大勝利に終わりました。 実朝の死後、政子は事実上の将軍として幕府を指揮し「尼将軍」とよばれたそうですから、その存在は大きかったといえます。夫・頼朝がつくった鎌倉幕府を守ることにつとめた政子は1225年、病でなくなります。69歳でした。 もう少し、政子についての話をしましょう。じつは「政子」という名前は1218年(政子が亡くなる7年前)に、朝廷から従三位(じゅさんみ)の位を与えられたときに、さずけられた名前です。調整の記録にしるされるためには正式な名前を持っている必要があるためで、父の時政の一字が使われたのです。 では、それまで彼女は何という名前で、どう呼ばれていたのでしょうか。じつは、それがわからないのです。「時政の娘」「実朝が母」とか、御台所(みだいどころ=将軍の妻)、尼御台、二位殿など、さまざまな呼ばれ方があったようです。ただ、それも時代やそのときの立場によって変化しました。少なくとも、実際に「政子」と呼ばれたことはなかったとみて良いでしょう。 ※この記事は【歴史人kids】向けの内容です。
上永哲矢