世紀のトレードも…確約されていた中日復帰 「紙もあるけど」譲れなかった“復帰の文句”
今は亡きドカベン香川伸行捕手への思い「ホント寂しいですよね」
さらには「横浜は大輔だけじゃなく、僕が監督の時の選手がコーチ陣にもいますからね。別に横浜を応援しているわけじゃないですよ。個々のことは気にしていますということです。それよりも、中日にしてもロッテにしても、この選手、もっとこうなれへんのかなとか、もっと頑張ってほしいな、とか、何でしょっちゅう怪我するんやろうとか、いろんな目で見てしまいますね」とも……。 牛島氏の現役時代とは違って、今の投手は球数、イニング数、登板間隔、すべての面で大事に起用されている。「それは僕が監督の時もそう。自分が経験してきたから選手にさせようとは思わなかったですよ」と言い「僕の時は投手のやりくりがしんどい時に、もう1イニング行ってくれたら助かるなと思って、その投手を見たら、彼もこっちを見ていて、僕がごめんってやったら、もう1回投げてくれという前にOKってやってくれたんですよ」と懐かしそうにも話した。 「川村(丈夫投手)のことですけどね。彼みたいなベテランは僕が考えていることをわかってくれていて、ホントありがたかったんですよ」。それはもちろん現在にも通じることだ。「監督と選手のそういう距離感、関係性というのがね。監督と選手って“はい”か“いいえ”じゃないですか。もっと言えば、みんな“はい”じゃないですか、そんなんじゃなくてお互いの気持ちで“頑張ります”とか“申し訳ない”とか、そういうやり取りがあればいいかなと思うんですけどね」と述べた。 ここまでいろんなことがあったが、振り返れば、浪商(大阪)で“ドカベン”香川伸行捕手(元南海)に出会えたことがやはり大きかったという。「彼がドカベンと呼ばれたから、僕も注目されましたのでね」。あの黄金バッテリーがあったからこそ、今があるわけだが、その香川氏はもういない。2014年9月26日に心筋梗塞で亡くなった。52歳の若さだった。 「もう10年になりますね……。この間のことのような気がしますけどね。最後に会ったのは僕が(横浜の)監督で福岡遠征の時かなぁ。一緒にいてワーワーする仲じゃなかったけど、若くして亡くなって、ホント寂しいですよね」。2018年8月8日、牛島氏は夏の甲子園100回大会4日目にレジェンド始球式を務めたが「あの時も香川が生きていたら、僕だけじゃなくバッテリーで呼ばれただろうなって思いましたね」。 牛島氏の野球人生は香川氏との縁をはじめ、たくさんの縁でつながっている。楽しいこともうれしいこともあった分、つらいことも悲しいこともあった。いろんな戦いもあったが「セ・リーグもパ・リーグも経験できたし、怪我をしたことで肩や肘のこととかも含めていろいろ勉強することもいっぱいできた。監督も経験できましたしね」。それはまだまだ続いていく。これからもまた新たな「縁」が待っている。
山口真司 / Shinji Yamaguchi