自衛隊→漫画家の異色経歴を選んだ男 過酷な自衛官生活も「楽しかった」と言えるワケ
1任期で自衛隊を辞め、漫画家の道を選択
入隊したての頃は現在の自衛官候補生と同様の位置づけで、基礎訓練に打ち込む日々だった。3か月で候補生を卒業した後に、希望する職種の部隊を選ぶこととなる。 「パラシュート降下を見たときに、スペシャリストっぽいなと思ったりしたこともあって、空挺希望だったんです。でも適正検査で弾かれてしまいました。今でも空挺は入りにくいと言われていますし、普通の部隊とは多少違うんですよね」 その後、普通科隊員となったが、当時の思い出を振り返る。 「銃剣道が得意でした。でも僕は大嫌いでした(笑)。銃とか打ちたいんですよ。でもずっと、ど突き合いで、防具つけても痛いんです。当時の自衛官の評価軸は柔剣道と持続走と射撃競技会の3つ練度が指標でした。走るのが速い人はずっと走り続けていて、走りすぎて疲労骨折とかしてましたね。 理不尽な指導と感じたことはあまりなかったです。ああいうのってケガをさせられない限りは、受け手側がどう感じるかによる部分が大きいと思うんです。僕はむしろそういう世界を望んでいたので、注意される時は自分が至らないからだと受け止めていました。もちろん、怒鳴ったり、手を上げたりは、もっと別の方法があるだろうとは思います。でも、レンジャーとか非日常すぎる環境の場合は、危険と隣り合わせなので、命を守るために、目を覚まさせる意味で体への衝撃を与えなくてはいけない瞬間は間違いなくありますね。 駐屯地では、草刈りや洗濯、機密文書の焼却など、いろんな生活を営むための仕事もあるんです。皆さんがイメージしているような泥だらけの訓練を毎日しているわけではないですよね。そういうのは、演習の時ぐらいでしたね」 自衛隊は約2年間が1任期となるが、藤原先生は1任期で辞めることを選択した。「自分で望んで入ったこともありますが、楽しかったですね」と厳しさなどが原因で辞めたわけではなかった。 「別にやりたいことがあったのが1番の理由でした。自衛隊自体は全く嫌ではなかったです。その後、やりたかったことはうまくいかなくて、父親が大阪の実家で水道工事の会社をやっていたので、その手伝いをしていました。でも、20歳ぐらいの時に『俺は親のスネをかじって何をやってるんだろう』と思ったことをきっかけに漫画を描き始めました」 自衛官になる前は選択肢の一つだった漫画家だったが、入隊を機に漫画道具は全て捨ててしまっていた。そのため、ペンなどを新しく買いそろえての挑戦となった。 「地元の同級生だった友人がすでに東京で漫画家デビューしていて、ちょうど大阪に帰ってきていたんです。久しぶりに会って、『実は漫画を描いていて、これどう?』と見てもらいました。すると、『これ絶対賞取れるよ』と言ってもらえたんです。それを励みに描き切って、送ったら入賞したんですよ。その当時の小学館の副編集長が気に入ってくれて、『東京遊びにおいでよ』となって、その流れで『漫画家やろうよ』と声を掛けてもらえました」 その後、漫画家となった藤原先生が『ライジングサン』に出会うまでには紆余曲折の道のりが待っていた。
ENCOUNT編集部