【没後54年・三島由紀夫】当日の日記や資料を初公開…関係者が告白「未だ語られていない最期の記録」
〈没後50年以上が経過しても、今なお多くの人々に影響を与え続ける作家の三島由紀夫(享年45)。自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺した最期はあまりにも有名だが、そこにはまだ知られていない事実も多く存在する。血飛沫が飛び散った生々しい現場物品とともに、一部始終を目撃した隊員の家族が、FRIDAYデジタルの取材に応じた--〉 【証拠資料】現場に立ち会った自衛隊員が記した「三島由紀夫事件の当日の日記」実物写真 「落ちた三島さんと森田必勝さんの首を益田総監が立てようとした。森田さんの首は立つけれども三島さんの首は前に倒れてしまう。総監は新聞紙を持っているように言い、その新聞紙を首の下にあてがい三島さんの首をまっすぐに立てた。そしてその場にいた全員が合掌した。私はこう主人から聞いております」 54年前の出来事ではあるが、三島事件のことを多くの人は知っているだろう。ノーベル賞候補で日本を代表する作家の三島由紀夫が、‘70年11月25日、陸上自衛隊東部方面隊の益田兼利総監(ましたかねとし・当時57)を人質に取り、自衛隊員にクーデターを呼び掛けるという大事件が起きる。三島はバルコニーの下に集まった自衛官に対して決起を促す演説をしたのち、総監室に戻り同士の森田必勝(当時25)とともに割腹自殺をして果てたのである。 三島と森田の切腹を見届けたのは、三島が結成した組織「楯の会」のメンバー3人と益田総監の計4人とされているが、実際には総監室で切腹の現場を目撃していた自衛官がいた。当時2曹で総監の雑務を担当する「業務室」勤務の磯邊順蔵さん(85、当時31)である。 現在、脳梗塞により介護老人保健施設で過している。倒れる前に「三島事件について知っている人が少なくなってきた。私が持っている資料を後世に託さなければならない」と資料を整理していたという。そんな矢先、病に襲われた。ご主人の想いを実現したいと、今回ご本人に代わってご婦人である眞知子さんが、磯邊さんから聞いた話や資料を公開してくれた。冒頭の話も眞知子さんがご主人から過去に何十回と聞いていた内容で、益田総監の三島への敬意が感じられる逸話である。 磯邊さんは仕事での出来事を毎日、日記に残していたが、事件当日についてこう記している。 ――――― 11:00 三島由紀夫氏以下5名、来監する 11:02 木村佳枝2曹と自分の2人でお茶を出す。総監室には三島由紀夫以下5名と益田兼利方面総監のみ 11:05 三島以下5名、益田総監をしばり日本刀を抜く。乱入するも右手中指を刀で切られる。益田総監を助けに行くも人質に取られているために助けられず(原文ママ、以下同) ――――― きわめて淡々と書かれているが、実際には総監を救出しようと自衛官たちが命を懸けて三島たちに立ち向かっていた。磯邊さんの行動に関しては自衛隊の内部資料「活模範」に詳しい。 〈当時、業務室には長木銃の備え付けはなかった。『総監が危ない』と磯邊2曹は手近くのモップの柄をもって総監室に入った。磯邊2曹はモップを三島の顔面に突き付けたが、三島が振り下ろした一刀でモップの首をバッサリ切られてしまった。止むを得ず室外に出たが、憤まんやるかたない。磯邊2曹は、今度は携帯消火器を持って総監室に入り、三島らに噴射した〉 隊員たちは窓を割って部屋に突入したためガラス片は散り、乱闘で総監室の棚にあった本は崩れ落ち、応接の机や椅子はひっくり返った。結局、磯邊さんはじめ自衛官たちは三島らに室外に追い出されてしまうが、この間2~3分だったという。 そして三島は総監を開放する条件として自衛隊に対して、「自衛官を本館前に集合させること」「自分の演説を静聴すること」を要求。三島は本館前に集合した隊員たちに、玄関上のバルコニーから最期の演説をする。しかし、その訴えは隊員たちの怒号と報道のヘリコプターの音でかき消され、演説の内容を聞き取れた隊員はほとんどいなかったようだ。10分程度で演説を切り上げた三島は総監室に戻り、そこで切腹をするのである。 「主人は三島さんから3mくらいのところに座り、粛々と進められる切腹を呆然と見ていたそうです。『何が起こっているのだろう?という感覚になっていた』と言ってました」(眞知子さん) 総監室のじゅうたんは赤い色だったにも関わらず、三島と森田の亡骸の周辺は血の海となり真っ赤に染まった。そして時間がたつと鮮明な赤色はどす黒い赤色に変わっていったという。介錯に複数回を要した三島の首は切り口が真っすぐになっていなかったため立たず、床に転がってしまう。そのため益田総監が新聞紙を下に入れて首を立たせてあげたのである。 「益田総監は誠実で裏表のない武士道精神をもった方で、主人はとても尊敬していました。そんな方だからこそ三島さんの心情が痛いほどわかり、切腹を止めずに見届けたのだと思います」(眞知子さん) その時の総監については、縛られたままで「やめなさい」「介錯するな、とどめを刺すな」と叫んだ、とされているが、実際には見届人を務めていたのであろう。事件の翌月、益田総監は事件の責任をとり辞職。その後、羽田空港事務所に就職したが、’73年7月に病気で亡くなった。 三島事件はこれからも語り継がれ、時代によってその評価も変わっていくであろう。ただ、三島と益田総監の精神は永遠に残り続けるに違いない。
FRIDAYデジタル