元なでしこ鮫島彩の素顔とサッカー人生 信条を生んだ相棒の存在「だから上手くなりたかった」【コラム】
偉大な相棒からの学び「『今の場面、どうしたかった?』と必ず先に聞いてくれた」
鮫島と言えば、その独特のランニングフォーム。やや内股で、上半身の軸は全くブレることがない。速く走るようには見えないそのフォームで、サッカー人生の筆頭の売りを“スピード”としてきたのだから、いろいろ通例を覆してきたと言える。 その分負荷がかかり、怪我も避けられない。「キツかった無所属でのリハビリ期」(鮫島)も経験したが、自分の細胞と徹底的に向き合ってきた。大きな怪我につながる前に、身体中の違和感を敏感に察知し、食事管理もお手のもの。「作り置きでですけどね」と本人は言うが、テーブルに上がる品数の多さを聞けば、もう脱帽。料理の腕前はサッカー界でもトップを争うのではないだろうか。これらを含めた自己鍛錬を無理やりにでも楽しそうに取り組むのも実に彼女らしいところだ。 ピッチ上では、鮫島が貫いてきたことがある。それは決して自分の考えを押し付けないこと。リオデジャネイロ五輪出場を逃し、スタートした高倉麻子監督体制は、経験値から見ても鮫島らの世代が牽引する立場になった。彼女たちは新たなチームを作るにあたり、とにかく下の世代の意見を聞きまくった。その根底にはある人の存在があったからだと鮫島は言う。 「W杯で優勝した時、宮間(あや)さんと左サイドを組ませてもらった。この時、宮間さんは絶対に『今の場面、サメはどうしたかった?』と必ず先に聞いてくれてました。当時の自分は未熟すぎて、宮間さんは常に私のカバーをしてくれていて……私がもっと上手くなれば、宮間さんはもっと絡むことができる。他の人を活かすことができる。だから上手くなりたかった」(鮫島) 世界を獲ったW杯決勝トーナメント以降、なでしこジャパンがイニシアティブを取れる試合など1つもなかった。常に攻撃の脅威に晒されながらも、宮間&鮫島ラインは楽しそうだった。相手にシュートポジションを取られ、間に合わない場面に遭遇すれば「ギャー!止めて~!」と叫びながら祈る。世界の舞台を無欲で楽しんでいた。この大会で「自分以外の誰かのためにプレーすることの喜びを知りました」と、鮫島はよく振り返っていた。 偉大な相棒から引き継いだ教えは、最後の所属となった大宮アルディージャVENTUSのチームメイトに余すことなく注がれた。トップカテゴリー未経験者も多かった。“あのなでしこジャパンのサメさん”という憧れも強かった。そんな選手たちに、鮫島は自ら目線を合わせにいった。壁を取っ払い、頭を使わせ、ともに考える。そうして歩みを進めた3シーズンだった。だからこそ、「このメンバーに送り出してほしい」(鮫島)と思えたのだろう。