ジョーカーが仕掛ける狂乱の世界へ没入!“IMAX推し”な『ジョーカー2』はレディー・ガガの歌声も最高の環境で
映画史にその名を刻む悪役“ジョーカー”の誕生を描きだし、世界中で社会現象を巻き起こした『ジョーカー』(19)。その待望の続編となる『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』(通称『ジョーカー2』)が、いよいよ10月11日に公開を迎えた。すでに世界77の国と地域でオープニング第1位を獲得し、世界が賛否真っ二つに分かれており、間違いなく今年最大の衝撃作だ。 【写真を見る】レディー・ガガ演じる謎の女リーの思惑とは!?前作を凌駕する衝撃のラストに驚愕 DCコミックスに登場するキャラクターを原案とした作品でありながらも、これまでハリウッドで数多く作られてきたアメコミヒーロー映画とは一線を画すようなサスペンス性とドラマ性に満ちていた前作から5年。今作もまた、迫力満点の映像をただ受け止めるのではなく、作品世界に没入してこそ衝撃度が増す一本に仕上がっている。それはつまり、視覚や聴覚などあらゆる感覚が研ぎすまされるような究極の映画体験を実現させるIMAXでの鑑賞に打ってつけだということ。そこで本稿では、本作をIMAXでより深く味わうための注目ポイントを紹介していこう。 ■伝説の前作からパワーアップ!ジョーカーの仕掛ける世紀の“ショー”の幕が上がる まずは前作『ジョーカー』を簡単に振り返っていきたい。コメディアンを夢見る心優しい男アーサー(ホアキン・フェニックス)は、大都会でピエロメイクをした大道芸人として働きながら、年老いた母と2人で慎ましやかに暮らしていた。しかし周囲からの冷たい反応や理不尽だらけの世の中に苦しめられ、精神的に不安定な状態に陥っていく。そしてアーサーは、徐々に“悪のカリスマ”ジョーカーへと変貌を遂げることになる。 前作の“伝説”が始まったのは、そのお披露目の舞台となった第76回ヴェネチア国際映画祭。コンペティション部門に出品され、上映後に約8分間のスタンディングオベーションを浴びると、同映画祭の最高賞にあたる金獅子賞を受賞。その後、北米を皮切りに全世界で公開されるや熱狂はまたたく間に拡大し、R指定映画としては当時歴代最高となる全世界興収10億ドルを突破。そして翌年に発表された第92回アカデミー賞では、作品賞など最多11部門にノミネートされ、主演男優賞と作曲賞の2冠に輝いた。 ひとりの善良な青年が孤独感と疎外感に苛まれながらジョーカーへと堕ちていく姿にフォーカスしていた前作の“その後”が描かれるのが、今回の『ジョーカー2』。いったいどんな物語が展開するのかと、製作が発表されて以来、世界中が大きな注目を寄せてきたことはいうまでもないだろう。様々な期待や憶測を胸に映画が始まってみると、ファーストシーンから度肝を抜かれること間違いなし。なんと前作のトーンとは正反対の、昔懐かしいカートゥーンスタイルのアニメーションから物語が始まるのである。 ここではアーサーという男と、彼のなかにいるもうひとりの人格である“ジョーカー”の攻防が、まるで「トムとジェリー」さながらのドタバタコメディの様相で描かれていく。このアニメーションパートを手掛けたのは、『ベルヴィル・ランデブー』(02)や『イリュージョニスト』(10)で知られるフランスアニメ界の名手シルヴァン・ショメ。カラフルな色彩とデフォルメされたキャラクターのデザインはどこまでもポップであり、前作とはまた異なる、より多くの人に向けられたエンタメ作品であることを高らかに宣言するかのよう。さらに続く本編に向けて何かしらのメッセージを提示しているのだ。 そうして幕を開ける138分間の壮大な“ショー”は、まさにエンタメの王道をつらぬく贅沢さ。前作同様、社会派的な側面やアーサー個人の複雑な心理描写にも寄り添いつつ、劇中には何度もミュージカルさながらの歌唱&ダンスシーンがインサートし、さらに謎の女リー(レディー・ガガ)とのラブストーリーから、緊張感みなぎる法廷でのサスペンスに、怒涛のクライマックスに至るまで、通常であれば一本の映画にはとても詰め込みきれないほどの要素をぎっしりと詰め込みながら一気に畳み掛けてくる。 この途方もない密度の濃さにIMAX鑑賞ならではの没入感がプラスされることで、まさに究極の“ショー”と呼ぶにふさわしい、前作を凌駕する映画体験が待ち受けていること請け合いだ。ジョーカーの是非を観客に問いかける本作をその目で確かめてほしい。 ■“耳”で味わうIMAXの醍醐味!歌姫レディー・ガガの魂の歌声に心震える タイトルにある“フォリ・ア・ドゥ”は、実際に精神分野で使われている医学用語であり、一人の妄想が親しい人物に伝播し、その相手もまた同じ妄想にとらわれるようになるという「感応精神病」を意味している。その言葉通り本作では、ジョーカーの狂気がリーへ、そして群衆へと伝播し、やがて狂乱の世界がやってくる。 舞台は前作から2年後。理不尽な世の中の代弁者として民衆から祭りあげられ時代の寵児となったジョーカーは、アーカム病院に収容されていた。そこでおとなしく過ごしていた彼は、ある日施設内の音楽教室でリーという女性と出会い、ジョーカーに共鳴したと語る彼女にたちまち惹かれていくこととなる。一方、2年前に起こした事件の是非を問う裁判が全世界に中継されることが決まり、地方検事はアーサーを有罪にすべく躍起となっていた。 劇中の大半がアーカム病院の施設内と、アーサーが出廷する法廷でのシーンに集約されている。どちらも外界からは閉ざされた場所であり、大都会のなかで繰り広げられた前作とは異なるアプローチでアーサーの孤独感が表現されているといえよう。その苦悩と絶望が暴力として表出しジョーカーへと転じていった前作に対し、すでにジョーカーになっている本作では、よりアーサーの内面的な混沌に触れていく。 それを表現しているのがミュージカルシーンだろう。フェニックスとガガ、劇中で歌唱を披露する2人の歌声は撮影中にライブレコーディング(=同時録音)された“本物”の歌声であり、台詞の演技に込められていた感情を途切れさせることなく観客をミュージカルシーンへといざなう。改めて説明するまでもなく、ガガは13度のグラミー賞に輝く世界的歌姫。まさに彼女のために用意されたと言わんばかりの格好の舞台となり、IMAXのこだわり抜かれた高精度な音響で味わえばなおさらに、まるでライブ会場にいるかのような臨場感で鳥肌が立ちっぱなしだ。 もちろん前作でアカデミー賞作曲賞に輝いたヒドゥル・グドナドッティルが再び手掛けた劇伴も、流れるたびにずしんと体の奥深くに刺さるような重厚さを携え、作品への没入感をより一層高めてくれる。また、音楽以外にも小さな効果音ひとつ逃さずに聴き取れるのがIMAXの醍醐味であり、ダンスシーンでのステップや、呼吸やリップ音など、そのシーンそのシーンごとのアーサーの不安定な心理状態をより細かなところまで確認することができるだろう。じっくりと“音”の妙味に着目してみるというのも一興ではないか。 視覚的な面でも、海上に浮かぶアーカム病院の異様かつ威圧的な外観と荒んだ内部の様子に、どこか落ち着かない閉塞感を味わうことになる。それが物語の要所で降りしきる雨によって助長されると、知らず知らずのうちにアーサーの抱える孤独と怒りを自分ごとのように捉えてしまうかもしれない。それはもうジョーカーの狂気に呑み込まれている証拠。そんな時は、劇中に散りばめられているフレッド・アステア作品をはじめとした往年の名作ミュージカル映画へのオマージュを探しながら、正気を保つことをおすすめしたい。 ■ホアキン・フェニックスの怪演に、あらゆる感情が刺激される! そして本作の最大の見どころといえば、やはりホアキン・フェニックスが見せる、一瞬で観客を釘付けにする最高レベルの怪演だ。前作に引き続き肉体改造に挑み、それによって生じた感情的に不安定な様子が、そのままジョーカーという役柄に反映されているという生々しさ。もはや演技の限界を突破しているといっても過言ではないだろう。 オスカー俳優の仲間入りを果たした前作以降も、リドリー・スコット監督の『ナポレオン』(23)やアリ・アスター監督の『ボーはおそれている』(23)などでその演技力を見せつけたフェニックス。しかし、ジョーカーこそが彼にとっての一世一代のハマり役であると、本作を観ればあらためて実感できるはずだ。 今年の第81回ヴェネチア国際映画祭でのワールドプレミア後に行われたオンライン記者会見の席で、フェニックスはジョーカーを演じるにあたっての役づくりのポイントとして「彼のアイデンティティを掘り下げること」だと語っている。不遇なバックグラウンドや、不条理な世の中から浴びせられてきた仕打ち、あらゆる出来事をアーサーはどのように受け止めているのか。それをアーサーとジョーカーという二面性を持った人物の表情や行動にどのように落とし込まれているのか。 キャラクターとしての掘り下げが丁寧かつ精密に行われていることは、おそらく通常のスクリーンで観ても一目瞭然だ。しかしIMAX認証デジタルカメラで撮影された「Filmed for IMAX」である本作は、IMAXの壁一面の大画面で観ると、さらにそのディテールまではっきりと確認でき、より強烈に引き込まれてしまう。孤独のどん底にいた男がリーとの出会いでわずかな希望の光を見出し、裁判を重ねるうちに狂気を募らせ、やがてリーとの関係に変化が生じるなかで絶望へと堕ちていく。それらが表情の些細な動きや目線によって表され、観るものの感情をじわじわと刺激していく。 ひと足先に本作を鑑賞している海外の批評家からは、「期待通り狂気的でエキサイティング」や「前作以上に人々を驚かせる独創性」との声が多数上がっているが、同時に前作以上の賛否両論を巻き起こしている点も本作らしいところ。それはひとえに、“ジョーカーの誕生”というはっきりとした結末が用意されているとわかっていた前作に対し、最初から最後まで予想だにしないことが起こり続ける本作は、咀嚼し消化するのにあまりにも時間が掛かるからに違いない。 クライマックスの展開については多くを語ることはできないが、フェニックスが放つ絶望的なオーラによって、前作にも登場したあの“ジョーカーの階段”が同じ場所なのにまるで違って見えることだけは言っておきたい。そして最後の最後に訪れる展開も彼の“目”がすべてを物語っており、暴走と狂気の果ての衝撃の先に、また別の感情が湧きでてくるはずだ。ジョーカーが仕掛ける狂乱の“ショー”をリアルさながらに体感できるIMAXで目撃したら、誰もが劇場を出る時には軽やかなステップを踏み、ジョーカーの狂信者となっていることだろう。 文/久保田和馬