<独占告白>元巨人の代走スペシャリスト、鈴木尚広の引退真実
そして声がかかるとベースタッチと同時にスイッチが入り無の境地になるという。 「下調べと準備。自分のやるべきことをやってから、そこに行き着くからプレッシャーは感じず、むしろ何も考えません。ベースにいく前にすべてを整えていくんです。だから冷静に対応ができました。あそこで何かを考えるようになると逆にスタートがきれなくなります。ベース上では、何食わぬ顔をするんです。弱気を表情に出さないんです」 相手ベンチからすれば憎いほどのポーカーフェイスも考え尽くされたものだった。 「例えば陸上のボルトを見ていると顔の筋肉が緩んでいます。緊張と弛緩のバランスがいいんです。力みが消えパフォーマンスがアップします。それに何食わぬ顔でリラックスしていれば、“こんな場面で緊張しない奴って、どんな奴?”とバッテリーは考えるでしょう? 考えさせる、惑わせることが大切なんです」 ベース上では、時折、一塁手が話しかけてくるが、「返事をしているが心そこにあらず。人と話している感覚もなかった」。それほど集中していた。いわゆるアスリートにおけるゾーンの状態である。 それでも、その境地にたどり着くまでは「10年かかった」という。 「若い頃は、ファンの声援も雑音に聞こえてしまうくらいに視野も狭く、地に足がつかず聴覚の感覚も失われていました。緊張で自分の心臓の音が耳元で聞こえるくらいでした」 盗塁技術も磨きあげた。 盗塁には、勝負のポイントが3つあるという。牽制やクイックでなんとか阻止しようとするピッチャー、スローイングで刺そうとするキャッチャー、そしてタッチプレーを試みる野手との接点だ。 「盗塁に対しては、ピッチャーが投げる、キャッチャーが捕って投げる、野手が捕ってタッチするという3つの行程があります。そのどこかで相手がミスをしてくれれば盗塁は成功します。スタートがよければ、キャッチャーは焦るでしょう。つまり相手にいろんなことを考えさせて、そのひとつひとつを崩していく。そこにおもしろさがありました。足が速いだけじゃむずかしいんです」 VTRを何度もチェックして投手の牽制の癖を盗んで走るタイプではない。 「そこは判断材料にはしません。癖がわかるピッチャーがいればいいが、わからないピッチャーもいて、癖に偏りすぎると、力は落ちてきます」。 鈴木氏が、現役時代に尊敬して、その技術を目で盗んでいたという元阪神の赤星憲広は、感性でタイミングをつかむと言っていた。 「スタメン出場ができればリズムがあり、牽制がくるかこないかは、五感でわかるんです。スタメンで出るときは、それは感じていました。でも、それは反復があるからこそわかるもので、代走勝負となるとわからないんです。そこをあわせるのが難しい」 鈴木氏のスライディングも独特だった。スピードを落とさず至近距離から、まるでキックを出すように突っ込む超高速スライディング。 「体が近くまできて足をキックするように出すので野手は怖いんです。僕からすれば怪我の防止も考えたスライディングでしたが、毎回、この形で滑りこんで、相手に“鈴木はクロスプレーになると怖い”という印象を植え付けるんです。これだけでひとつ優位に立てます」 そこまでの万全の準備をしても出番の回ってこない試合もある。 気が遠くなるようなルーティンを鈴木氏は、代走のスペシャリストとしての地位を築いた2011年あたりから6年間も続けてきた。