捨て子だった女性が、無戸籍のまま過ごした70年 やっと手に入れた「家族」との日々も、死後は身元不明の無縁仏に
▽施設を転々 1953年に神戸駅で保護された橿本さんは、真生乳児院(神戸市中央区)に預けられた。門口さんらによると、成長の過程で知的障害があることが判明したようだという。 1983年に神戸市の職員が書いたとおぼしき「身上調書」によると、橿本さんは市立神出中(神戸市西区)の「特殊学級」(現在の特別支援学級)を卒業している。 無戸籍のまま、どのような経緯で中学に通えていたかは分からない。25歳だった1978年末には、精神科専門病院の関西青少年サナトリューム(神戸市西区)に入院した。「院内では特に問題なし。日常的なことは自立」と現況欄にはあり、「まじめで質問に対してわからなければ聞き直すと言うように課題に取り組む姿勢が伺える。投薬を続ける必要があり、施設入所としたい」との所見も記されていた。 橿本さんは約4年後の1983年6月、障害者支援施設の三木精愛園(兵庫県三木市)に入園。しばらくそこで暮らしたが、施設側からの依頼があり、橿本さんが36歳だった90年2月、知的障害者が共同生活する場となっていた門口さんの教会で引き取ることになった。それから2023年2月に亡くなるまでの丸33年間、橿本さんは教会で暮らし続けた。
▽いい人生が送れたんじゃないか ところでなぜ、天理教の教会が、障害者らが家族のように共同生活する場となっているのか。 話は、門口さんが長男を出産した1961年にさかのぼる。長男に種痘(天然痘の予防接種)を接種させたところ高熱を出し、危険な状態になった。医師からは、たとえ命が助かっても障害が残る可能性を伝えられたという。門口さん夫婦は神に祈るしかないと仕事を辞め、以前から信仰していた天理教の教会を建てた。 その後、長男は無事に回復し、危惧したような後遺障害も残らなかったため、「長男の養育が終わったら、困っている人のお世話をしよう」と門口さんは心に決めたという。 それから約20年後、パニック障害の自傷行為で片目を潰してしまった男性を連れた父親が「どの施設も怖がって預かってもらえない、助けてほしい」とやってきた。引き取って世話をしているうちに、「あの教会ならどんな人でも支援してくれる」との評判が広がり、共同生活を希望する家庭が増え、教会の居住スペースもどんどん増築されていった。通所施設を望む声も出て、1985年に三木市に社会福祉法人まほろばを設立することにもなった。現在、教会では約50人が共同生活している。