「これほどまでに表情豊かな犬がいるのか」 ノンフィクションライター・濱野ちひろ氏が今も忘れられない「種族を超えた会話」
路地で育った2頭の雑種犬
『聖なるズー』で第17回開高健ノンフィクション賞を受賞した、ノンフィクションライターの濱野ちひろさん。動物性愛を詳らかにひもとき著書に昇華した彼女が、プエルトリコの路地で育った2頭の雑種犬と交わす、種族を超えた会話とは。 ***
もう一度必ず会いたい、と思った。彼女はそんなことには気付かないで、ハグをせがんだ。急いでいたから私は軽く彼女の体に触れて、また会おうねと念じたのだった。玄関を飛び出し車に乗ると、すでに心に寂しさが巣くっていた。彼女にはもう一度会えるのか、それはいつなのか、決して伝えられないのだ。 彼女は弟分と共にプエルトリコの路地で育った。弟は、体は大きいが臆病者だ。虚勢を張って弟を守り縄張り争いに勝つために、彼女は緊張の中で過ごしていたことだろう。そんな彼女に私が出会ったのは、アメリカ人女性、ステフのおかげだ。彼女と弟が共に保護施設にいるときに見かけ、2頭ともを平和な家庭に引き取った。施設で彼女はスパイス、弟はシンバと名付けられていた。スパイスはチワワの血が流れる雑種犬、シンバはテリアの血を引く雑種犬である。ストリート・ドッグだからしつけはかなり難しい。 昨年、ひょんなことからステフの家に滞在させてもらった。最初の3日、スパイスは私を許さなかった。私を見ればほえ、飛びかかってこようとした。先に心を開いたのはシンバの方だった。1日目こそ姉に釣られほえていたが、翌日には近寄ってきて私にへそを見せた。なでてやるとうっとりと眠り始めた。私とシンバはこうして比較的早く仲良くなった。スパイスは依然私に対して険しい態度を貫いていたが、シンバがうとうとするのを見て、気にはなっているようだった。
複雑に逡巡する様子のスパイス
スパイスは、これほどまでに表情豊かな犬がいるのか、と私に目を開かせてくれた存在である。しつけが完全にはなされていない段階で出会ったのも良かったのかもしれない。ほえるときには、私を相手に力んで見せているのがよく分かる。いつまで自分の家にいるつもりなのかと、つんけんして私に問い詰める。 4日目、ソファでシンバのおなかをなでていたとき、ついにスパイスに変化が訪れた。彼女の瞳はこんなふうに言っていた。とても気持ちよさそうに見えるが果たして信用していいのだろうか。ここまで来て負けるのは嫌だ。だが引かれてしまう。そうだ、この人間に負けるわけではない、好奇心に負けるのだ。それは悪いことではないだろう。と、複雑に逡巡するさまを彼女は私に伝えてみせた。そして恐る恐るおなかを出したのだ。 シンバに比べて小さく柔らかなおなかを私はそっと、ゆっくりなでた。彼女は一度も見せなかった落ち着きを示した。目を瞑り、手の動きに集中している。私は彼女のとりこになっていた。
1年ぶりの再会
彼女との別れは心に穴を作ったが、日常の煩雑さに紛れて塞がった。1年ぶりに再びアメリカのステフの家に行くことになったとき、その穴は再び現れて、覚えてくれているだろうかという不安に変わった。 いざ玄関の扉を開くと、スパイスとシンバはただ尻尾を振り私を迎え入れた。1年の不在など気にもならない、と。彼らは彼らの生きる力で距離も時間も超えてみせる。言葉を超えるその強い力に、私は憧れ、救われる。 濱野ちひろ(はまの・ちひろ) 1977年生まれ。ノンフィクションライター。『聖なるズー』で第17回開高健ノンフィクション賞を受賞。 デイリー新潮編集部
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