平安貴族にもあった“格差社会”⁉ 貴族間の差はなぜ生まれた?
平安時代といえば、優雅で華やかな平安貴族の姿を思い浮かべるが、しかし実際は官位制という格差社会や流行り病に悩まされたという。 ■平安貴族もランクにより収入に歴然たる差があった 平安貴族とは、天皇を元首とする中央政府から報酬を得て生活する役人とその親族であり、とりわけ「蔭位(おんい)の制」といって、父祖が五位以上である場合は嫡子が、三位以上である場合は嫡孫も一定の位階から官途を辿ることができた。貴族はこの制度による世襲の特権的身分の人々といえようか。そして、その地位は、主に藤原氏が占有するところとなった。 しかしながら、貴族にも、上中下のランクがあった。一・二・三位は上流で「上達部(かんだちめ)」と呼ばれ約20人、四・五位は中流で「殿上人(てんじょうびと)」と呼ばれ約100人いた。六位以下は下流という具合である。例えば、藤原道長も紫式部も、同じ藤原氏ながら、道長は祖父・師輔や父・兼家に続く権門一家の長良流、式部は曽祖父の兼か ね輔す けが三位中納言まで昇ったものの、五位付近に留まる受領一家で良門流の出身である。氏族内でもランクの差があったのだ。 もちろん、ランクに応じた収入の差も大きい。明確に裏付ける史料はなく、貨幣経済が未発達であるため、銭だけではなく、土地や布、当てられる家来も換算に含まれるが、現在の価値にすると、一位は推定年収3億以上、二位は1億以上、五位は1~2千万以上、六位は6~7百万円程であったらしい。従一位摂政太政大臣にまで昇り詰め、一条・三条・後一条天皇に、それぞれ、娘の彰子・妍子・威子を后にさせた道長が「この世をばわが世とぞ思ふ」と詠んだのにも頷ける。 監修・文/柴田まさみ 歴史人2024年2月号「藤原道長と紫式部」より
歴史人編集部