道長の全盛期重なる「北宋」皇帝が日本に抱く印象 東大寺の僧侶が太宗から受けた様々な質問
こんなエピソードがある。 平安中期における東大寺の僧・奝然(ちょうねん)は、三論宗と密教を学んだのち、商船に乗って983年に宋に渡った。 三国伝来の釈迦像などを持ち帰ったことで知られるが、滞在時には、北宋2代皇帝の太宗に謁見する機会まで得ている。 拝謁した席で奝然は、太宗から日本についてのさまざまな質問を受けて、それに答えた。とりわけ太宗は、皇統で連綿と続く単一の王朝が貴族制によって支えられる、という国づくりに関心を持ったという。
その背景について『江南の発展 南宋まで シリーズ中国の歴史2』 (丸橋充拓著、岩波新書)では、次のように分析されている。 「中国は直近の約百年、唐末五代の大混乱を経験していた。このころ宋は、太宗の兄、初代皇帝の太祖(趙匡胤。在位960~976)による建国から約4半世紀が経過し、五代十国最後の残存勢力だった北漢を滅ぼして(979)、本格的な天下泰平の態勢づくりにいざ始動、という局面にあったのである」
混乱期を乗り越えたものの、宋の体制がまだ盤石とはいえなかったため、日本の安定した制度から、太宗は何か取り入れようとしたのかもしれない。 もはや「日本が中国に見習う」だけの時代ではなくなったことがよく伝わってくる逸話だろう。 だが、国が十分にまとまっていない時期だからこその勢いもある。宋では、商人たちが勃興し、商業の発展によって生産力を増大させていく。 ■勢い盛んな宋の商人たち 道長が政権を握るや否や、商人の朱仁聡が林庭幹・羌世昌(周世昌)らとともに、船に乗って若狭国に上陸。70人あまりの宋人が、越前へと移送されたのは、まさにそんな勢いのなかで起きた出来事だった。
越前守に赴任した為時は、宋の商人たちのパワーに圧倒されたのではないだろうか。 父に同行した紫式部も、環境の変化に戸惑ったようだ。都の暮らしを懐かしみながら、この地で1年余りを過ごすこととなる。 【参考文献】 山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社) 倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館) 今井源衛『紫式部』(吉川弘文館) 倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書) 繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房) 真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)
真山 知幸 :著述家