明大法学部へ編入へ!「弁護士法改正」を踏まえた女子部法科設立だったが、実際には想像を超える困難が…あだ名は「ムッシュ」『虎に翼』寅子モデル・嘉子が送った青春時代
◆最適の学校 さて、話を嘉子の時代に戻しましょう。 それまで男性に限定されていた弁護士の資格が、1936年からは女性にも広げられたわけですが、弁護士になるには難関な国家試験を突破しなければいけませんでした(この頃もなお、弁護士の地位は判事・検事と比べると低かったのですが、とはいえかつての代言人のイメージとは全く違うものになっていました)。 この頃の試験は、高等試験令(高等試験は1894年から1948年まで行われていた、いわゆる高級官僚の採用試験です。もともとは「文官高等試験」、1918年以降の正式な名称は「高等試験」ですが、嘉子の頃も一般には「高文試験」・「高文」と言いならわされていました)によって定められた高等試験司法科というもので、これに合格しないといけませんでした。 さらに、この高等試験司法科に合格したあと1年半の期間、弁護士試補として修習を受ける必要があり、その後にもう一度試験を受けて合格すると、やっと弁護士となることができたのです。 そして、高等試験司法科を受けるためには、厳しい予備試験にチャレンジするか、予備試験の免除を勝ち取るか(高等学校を卒業しているか、大学の予科を修了しているか、文部大臣が特に指定した専門学校を卒業しているかが条件)しかありませんでした。 結局、弁護士法の第二条第一が改正されても、この条件があることによって、女性が弁護士になるということはかなり困難だったのです。 その中で、先ほど述べた通り、明大女子部法科は、弁護士法が改正されることを見越してその少し前に開設され、さらに明大法学部への編入を認めていました。 つまり、女子が弁護士を目指すには、明大女子部法科が最適の学校だったのです。
◆明治大学専門部女子部での青春 おおらかで明るく優しく、それでいて知性のある嘉子は、明大女子部でも多くの友人を得ました。 嘉子を含む4人組の仲間たちで、学校近くの駿河台下を歩いてみつ豆を食べ、三省堂書店に出入りし、料理学校に行き、家に帰ってからも電話をするほど仲良しでした。 YWCAで水泳をした後に授業に出て、濡れた髪のままで居眠りをしてしまうなどということもあったようです。 この頃の嘉子は、友人たちから「ムッシュ」というあだ名で呼ばれていました。 明るく元気な青春時代のエピソードは多く残っていて、東京で雪が降った日に、お使いで肉屋に行こうとした嘉子は、乃木坂をスキーで滑り降りて警察官に注意されたそうです。 また、東京女高師附属高女の頃と変わらず、嘉子の多才ぶりも発揮されていました。 明大には混声合唱団があり、嘉子も友人たちと一緒に入団しました。 土曜日・日曜日に集まって、明治大学記念館(初代の記念館は1911(明治44)年に竣工されましたがわずか半年で火災により焼失、2代目の記念館も関東大震災で焼失、嘉子が通った頃に立っていたのは3代目でした。1996(平成8)年に解体され、跡地に現在のリバティタワーが建設されるまで、明治大学の象徴でした)などで練習したようです。 その発表会が秋に開かれ、そこでは「白雲なびく」で始まる有名な明大の校歌や、短めのドイツ曲などが披露されましたが、最後に「流浪の民」(ドイツの作曲家ロベルト・シューマンが1840年に作曲した「三つの詩 作品二九」の中の一曲)の合唱があって、嘉子がソプラノソロを務めました。
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