東海林のり子と振り返る平成【後編】現場取材にピリオド 被災地で痛感したスタジオとの温度差
[映像]東海林のり子さんインタビュー
平成7(1995)年1月に起きた阪神・淡路大震災の取材が、現場を離れるきっかけになったという。常に現場の最前線へ赴き、数々の事件をリポートしてきた東海林。いったい、何があったのか。
どうやって取材したら… 音がまったくしない現場で
「子どもの虐待事件の取材で新潟方面に行き、東京に帰って翌朝それを放送する用意をしていたら、地震が起きたんです。全部地震の報道に切り替えることになって、カメラマン、ディレクター、上司、そして私の4人で、どういう方法でもいいからとにかく早めに現場に着くように、と。でも飛行機は満席なの。そこでいったん徳島に入って、徳島から伊丹に戻る飛行機を予約して、現場に着いたのが午前0時少し前。その日のうちにはなんとか入れたんですよ」 現地に着くとすぐさま取材用の車に乗り換え、避難所になっている体育館へと向かった。 「そこにいる人たちの姿が、月明かりに墨絵のように浮かんでいたの。みんな荷物を持ったり、子どもの手を引いたりしながら、でも誰もしゃべっていない。これ、どうやって取材したらいいの?って思うくらいシーンとして、音がまったくしない。そこへ入って行くんです」 東海林が後日話を聞いたレスキュー隊員も、同じ光景を目の当たりにしたとき「すごくショックでした」と漏らしたという。 「森閑とするなか、誰もしゃべってくれない。そのとき、ものすごい余震があって、私が『大変な余震です』と言ったものだから、避難していた人が飛び出してきて『大丈夫ですか?』って逆に心配されちゃったの。そこで初めて、『おうちはどうなっているんですか?』って、やっとインタビューできたんですよ。同じ体験をしていない人が突然東京からきて何を聞くんだ、という気持ちがあったと思うんですね。その壁を切り崩すのが難しかった」
現場とスタジオの温度差 必死で伝えているつもりだが…
1日経ち、2日経ち、時間が経過していく。いろいろなところへ行くが、どこへ行っても凄まじい光景が広がっていた。 「焼け野原のようになっていても、電信柱が倒れて通れなくても、その光景の全部を伝えることは到底できないわけですよ。カメラは切り取ったものしか出せないし、観ている人はその場にいるわけではないから実感が伝わらない。そのことを痛切に感じたの。いくら悲惨な景色を切り撮って『こんなに大変なんです』としゃべっても、スタジオからは『もうちょっと被災者の人たち、いまこれが欲しいとか、もっと言ってくれませんかね』ってリクエストされる。言えるわけがないんですよ、もうみんな疲れ果てているんだもの」 避難所の代表者がインタビューに応じようと立っていたが、ふらふらと体が揺れていたという。ろくに寝ておらず、憔悴しきっていたからだった。 「それでもテレビとしては、もうちょっと、もうちょっと、って。『毛布が欲しいんです』とか、『赤ちゃんのミルクが欲しいんです』とかうったえて欲しいんですね。そのときに、すごく矛盾を感じたの。それで、『いや、欲しいものはたくさんあるんです。ただ、みんな寝ていないから、いまはとにかく寝てしまいたい気持ちなんです』と言ったの。起こっていることのごく一部を切り取ったものしか伝えることができない。被災地に行って取材すると、みんなそうだと思うんですけど、『あ~、必死で伝えているつもりなんだけど、伝わっていない』って感じたの。だからと言って、それ以上のことはできないのですが」