男性の局部を切り取り「二人キリ」の血文字…昭和初期の“アイコン”だった「阿部定」に血肉を与えた村山由佳(レビュー)
一九三六年五月、料理屋の仲居だった阿部定が待合で愛人の石田吉蔵を絞殺し、局部を切り取って逃走。定は現場のシーツに吉蔵の血で「定吉二人キリ」と書き残していた─今なお有名な〈阿部定事件〉である。 定はまもなく逮捕されるが、その猟奇性は多くの人の興味を惹いた。何が彼女をそこまでさせたのか。いったい阿部定とはどんな人物なのか。狂気なのか純愛なのか。大正のアナキスト・伊藤野枝の評伝小説『風よあらしよ』で吉川英治文学賞を受賞した村山由佳が、今度は阿部定に挑んだ。 物語は事件から三十年後、脚本家の波多野吉弥が定に会いに行く場面から始まる。彼はある理由から事件関係者の証言を集めてきた。事件現場となった待合の女中、幼馴染、定を遊郭に売った女衒、定の初めての相手、定に更生を促した人物などなど。そしてついに、刑務所を出所した後に紆余曲折を経て小料理屋をやっている定のもとを訪れたのだ。はたして定は何を語るのか……。 小説の力、というものを感じさせる作品だ。阿部定を書くなら、本人の詳細な供述も残っているしノンフィクションでもよかったはずだが、村山は敢えて小説という形をとった。吉弥も架空の人物だし、ヒントになった資料があるとはいえ関係者の証言もほぼ創作だという。 だが、それがいい。事実に忠実に描かれた定の生涯を創作が補完することで、事実の輪郭がより明確になるのだ。吉蔵は他の男と何が違ったのか。定は吉蔵の何に執着したのか。彼女の情念の行き着く果てはどこなのか。昭和初期のエログロのアイコンのように扱われていた〈アベサダ〉が、ひとりの人間〈阿部・定〉として血肉を与えられていく。そして最後の意外な証言者で見事に円環が閉じ、本書が小説でなければならなかった意味がわかる。まったくもって見事な構成である。 本書の阿部定は刹那的でセルフコントロールができない、その場の感情に極めて正直な女性だ。おそらく多くの読者にとって、彼女に共感することは難しいだろう。だが理解できないがゆえに目が離せない。そして読み進むうちに、共感はできずとも「ここだけは少しわかる気がする」と感じる瞬間に間違いなく出会うはずだ。それこそが本書の醍醐味であるとともに、読者が阿部定をアイコンではなくひとりの人間として受け止めている証左に他ならない。 数ある阿部定小説の中で、里程標にして決定版たる一冊だ。 [レビュアー]大矢博子(書評家) 1964年大分県生まれ。書評家。名古屋在住。雑誌・新聞への書評や文庫解説などを多く執筆。著書に『読み出したら止まらない! 女子ミステリーマストリード100』『歴史・時代小説 縦横無尽の読みくらべガイド』などがある。 協力:新潮社 新潮社 週刊新潮 Book Bang編集部 新潮社
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