“幕末のジャンヌ・ダルク”と呼ばれる山本八重 鉄砲に囲まれて育ち、藩主・松平容保にその性能を解説した女性銃砲家の生き様
鉄砲を手に取り、戊辰戦争の激戦地会津戦争で目覚ましい活躍をした女性がいた。大河ドラマ「八重の桜」の主人公山本八重である。今回は激動の時代、その最前線を駆けた女性の生き様をご紹介する。 ■鶴ヶ城籠城戦で奮戦した男装の乙女 武術家というと、どんな人物を思い浮かべるだろうか。気難しそうな壮年男性? それともひげを蓄えた初老の男性? 江戸末期、正式ではないものの、砲術の武術家として実質的に行動した女性がいた。平成25年度のNHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公山本八重である。 戦国時代活躍した軍師山本勘助の子孫という説もあるが、祖父も父も会津藩の砲術指南を務める家に弘化2年(1845)11月3日生まれた。跡取りの長兄覚馬は、当時人気のあった江戸の佐久間象山の塾に入り、蘭学と西洋式砲術を学んで安政3年(1856)、会津に戻ってきた。この時江戸で購入したゲベール銃などを持ち帰ったという。八重は、この兄から火縄銃とは違う洋式銃の使い方を学ぶ。後に白虎隊として飯盛山で自決した伊東悌次郎にゲベール銃の打ち方を教えられるほど技術を自分のものにしていた。 慶応4年(1868)1月3日、旧幕府軍と新政府軍が京都郊外の鳥羽・伏見でぶつかり戊辰戦争が始まった。この時、弟の三郎が戦死している。新政府軍が敵とした元将軍徳川慶喜が早々に恭順の姿勢を見せたことで、新政府軍は振り上げたこぶしの行き所がなくなってしまった。そこで、慶喜と行動を共にして京都守護職であった松平容保が藩主であった会津藩に向けられた。 8月23日、新政府軍が会津城下に迫ると、人々はかねての申し合わせにより、鶴ヶ城に入城する。だが、急なことだったため、予定通りに城に入ることができなかった者たちもいた。こうした者たちは敵によって辱めを受けないようにと自害したという。 八重は、亡き弟の残した袴と着物を身に着け、髪を切り、三郎として銃を携えて城に籠り闘った。銃の腕前は周囲を驚かせるほど正確であったようだ。銃で相手を攻撃するだけでなく、一緒に籠城する女性たちに弾丸の作り方を教え、城内に飛んできた敵方の不発弾を利用して、最新の砲弾の威力を藩主松平容保に解説したといわれている。こうしたことは、銃や大砲に関して相当の知識がないとできない。公式に認められたわけではないが、山本八重は女性砲術家第一号といえるだろう。 しかし、会津藩の獅子奮迅の戦いも力及ばず9月22日に鶴ヶ城は開城が決まった。女性と60歳以上、14歳以下の男性は開放されたが、成年男性は猪苗代で拘束されることになった。八重は山本三郎として戦っていたので、猪苗代へ行ったが、女性だということがバレて帰されたという。 ■新たな時代で第二の人生を歩き始める 戊辰戦争直後の八重の動きはよくわかってない。しかし、藩の仕事で京都に行ったまま消息不明だった兄の覚馬が京都府の産業振興担当の顧問をしていることがわかり、八重は母や覚馬の娘とともに京都へ向かった。京都では覚馬の希望により、女紅場という学校で英語を学んだ。後に八重はこの学校で教師として養蚕や書道などを教えたという。 このころ、八重に縁談が持ち上がる。京都府知事槇村正直が後に同志社を創る新島襄へ「君にぴったりの女性がいる」と八重を紹介したのだ。明治8年(1875)10月に婚約、翌年2月に日本で初めてキリスト教による結婚式を挙げた。 結婚したものの、夫を呼び捨てし、人力車に乗る時には夫の手を借りるなど夫の襄を下僕のように扱っていると八重の評判はすこぶる悪かった。しかし、これは襄が望んだことだった。欧米では妻が夫を呼び捨てにするのも、夫が妻の手助けするのも当たり前の事柄だったが、日本では一般的ではない。普通の女性であれば世間の目を気にして「やめて」と夫に頼むだろうが、八重はそうはしなかった。自分で納得したことはやり遂げるという強さに襄は惹かれたのかもしれない。襄は自分の教え子たちに酷評されても、細やかな愛情をもって八重に接した。 同志社創立のため日本各地を奔走していた襄は無理がたたったのだろう。明治23年(1890)1月23日、47歳で八重の左腕を枕にしてあの世に旅立った。 襄亡き後の八重は、日本赤十字社に入社。明治27年に日清戦争が始まると負傷兵の救護にあたり、明治37年の日露戦争でも同様に看護活動を行った。戊辰戦争での籠城戦で負傷者の手当をした経験が生きたのだろう。昭和7年(1932)、87歳という当時としては長寿をまっとうした。葬儀に際して代々砲術指南として仕えた会津藩の藩主だった松平家からの献花もあったという。
加唐 亜紀