ハナマウイ投手・松坂大輔「名前を大事にしつつ、東京ドームでの好投だけを考えている」
~「野球選手として残りどれくらいの期間できるか?」を考えた
肘の故障は完治して大学4年時は主戦投手として投げていたものの、同年秋に今度は肩の故障を発症してしまう。 「半分以上の試合に登板しましたが、コンディション調整や身体のケアが不十分だった。4年秋は学生最後の大会だったので痛み止めを飲み無理して投げた。結果的にその後のハナマウイに入団してからも、完治まで想像以上の長い時間がかかりました」 大学4年秋のリーグ戦前にはハナマウイ入団が内定していた。故障を抱えて投げられない状態だったが、大学卒業後は快く受け入れてくれた。 「社員ではなく他の仕事をしながらのクラブ生として入団しました。入団後3-4ヶ月で肩も治って投げられるようになった。学生時代より練習時間が少ないので感覚を取り戻すのには苦労しました。今の仕事は夜勤が多く睡眠時間を削って練習をする生活です」 ハナマウイでは投手コーチ・中山慎太郎とエース(当時)・平野暖周との出会いが大きな影響を与えてくれた。 「中山さんは身体のメカニクスを丁寧に教えてくれる。ここまで、と思うほど細かい指導をしてくれます。平野さんは2020年の都市対抗(東京ドーム)で投げている姿を見てから尊敬の存在。常に手を抜かず黙々と練習する姿勢に刺激を受けます」 「平野さんには『野球を今後どれくらいできるか、を考えた方が良い』と言われた。現役でできる時間は限られているので、『眠い、身体がつらい』など言わず野球に没頭しようと思いました」 「各自に適したメカニクスを活かす」中山コーチの指導の元、横手投げへの投球フォーム変更もうまくいきつつある。また平野が都市対抗の舞台で四国銀行(高知市)相手に先発して8回1失点に抑えた勇姿を忘れることはない。
~「松坂大輔」という名前の捉え方は自分次第
ハナマウイ入団4年目26歳のシーズンに入った。残りの選手生活が長くないことを自覚しつつも、今は目の前に全力を注ぐことしか考えていない。もちろん名前に対する複雑な思いなどは微塵もなくなっている。 「今でも打たれたら悪い評価は聞こえますが、『この名前を背負って結果を出すのはすごい』と言ってくれる人もいます。どう捉えるかは自分次第だし、『やるしかない』と覚悟は決めました」 「今は松坂大輔という名前に何の不満もありません。忘れられない名前なので、色々な人に話しかけられる機会も増えました。『あのチームにいたよね』とか相手が覚えていることが圧倒的に多いですから」
「シンプルに一生懸命、野球をやります。都市対抗野球の東京ドームで良い投球します」と笑顔を見せる姿には期待しか感じさせない。 「怪物・松坂」の伝説が始まったのは1999年4月7日のプロデビュー戦(対日本ハム)、東京ドームでの快投だった。同じマウンドでハナマウイの松坂大輔が好投を見せてくれる日が見たい。タフな環境に負けず自らを高め続ける横手投げ右腕に、その日は必ずやってくるはずだ。 (取材/文/写真・山岡則夫、取材協力/写真・ハナマウイ・ベースボールクラブ)