本郷和人 なぜ家康は便利な「銭」でなく、あえて「コメ」で全国から税を納めさせたのか…最期の地に「日光」を選んだ理由とも重なる<家康の願い>
◆天海とは何者だったのか 一方、崇伝と天海は家康が深く帰依していた僧侶ですが、どちらがより信頼されていたかというと、それは崇伝になるようです。ですが、家康の没後に、天海は崇伝以上の権勢をもつにいたった。 それは神号の選定問題でも見て取れる。幕府は家康を「神さま」として祀ることを決定しましたが、このとき崇伝は、神号は「明神がふさわしい」としました。 しかし天海は「明神は縁起が悪い」と難じます。豊臣秀吉は豊国大明神として祀られたが、豊臣家は滅びたではないか、というのです。結局、「権現」がふさわしい、との天海の意見を幕府は採用しました。 天海という人物の前半生はよく分かっていません。そのため彼の正体は明智光秀であるという俗説も生まれたのですが、信頼できる史料によれば、かなりの高齢であるときの彼は川越の喜多院という天台宗寺院の院主を務めていた。そこで家康とめぐり会い、天海はブレーンとして登用されたのです。 天海は会津の蘆名家の一族ではないか、という有力な説があります。この説が正しいとすると、晩年の家康に日光の来歴や功徳を説いたのは天海だったかもしれない。 会津と日光は街道で結ばれています。天海はもとから日光をよく知っていたのです。 それで家康は「小さなお堂」と言ったのに、大きな、この上なく豪華な伽藍を建立し、家康を祀った。自身の江戸での本拠である寛永寺(天台宗)とあわせ、「山王一実神道」という神道と仏教を融合した教えの聖地としたのではないでしょうか。
◆家康がコメでの貢納を課した理由 天海の思惑はそうであるとして、家康は天海に奨められたとしても、なぜ日光を指名したのか。ぼくは東国、つまり関東と東北への思いが家康にあったからだと思います。 少し視点を変えます。政治の基本とは何でしょうか。 為政者は人々に「サービス」を提供する。人々は「サービス」に応じて税を支払う。このギヴ・アンド・テイクの関係が、今も昔も、統治行為の根本だと思います。 江戸時代初めの社会に於いて、西国は経済的に進んでいて、税を銭で支払うことができた。でも、東国、なかんづく東北地方は貨幣経済の浸透が十分ではなく、農村には銭が不足していた。そのため、銭で税を納めることは難しかった。 もちろん、西国は銭で東国は現物、つまりコメで税を納めるというかたちも「あり」ではあった。でも、それでは、秀吉がようやく統一した日本が、本当の意味で「一つ」になることはできない。家康はそう考えた。そこであえて、西国にもコメでの貢納を課した。 銭とコメの問題は、カード決済と現金決済にたとえることができるかもしれません。納税に銭を用いることがカード決済で、コメは現金決済。 経済原理でいうと、カード決済・銭での上納の方が便利で進んでいる。でもあえて遅れている方に合わせることにより、日本列島の一体感を現出する…。 それが家康の考えだったと思うのです。
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