水辺を思索と創作の場に ── 水都大阪再生へ平成の文人たちに期待
2014年は多彩な水辺イベントが大阪で開かれ、水都大阪再生の動きが加速した。多くの市民が水辺とふれあい、水辺の楽しさを体験した。今年はさらに水辺を思索や創作の場に活用したい。ヒントは「青湾」だ。
大川上流のリゾート地「青湾」
大川が「青湾」と呼ばれた時代があった。大川は旧淀川。1909年(明治42)、淀川の大改修が断行された。旧来の淀川は下流で湾曲しているため、はんらんしやすい。有史以来、度重なる洪水被害に泣かされてきた。 そこで、近代土木技術を駆使し、抜本的な改修工事に着手。淀川の北部を流れる旧中津川を広げて、まっすぐな大放水路を作って大阪湾と直結。膨大な水量を大阪都心部に通すことなく、大阪湾へ流し込むことに成功した。大阪市民の悲願だった。そして残った旧淀川の流れが、現在の大川だ。新淀川と大川の水量は毛馬閘門(こうもん)で調節されることになった。 大改修前の近世の大坂人は、淀川に愛憎ふた筋の感情を抱いていた。水害となれば恐ろしいきばをむく半面、平時の淀川は日々の暮らしを支え、やすらぎや華やぎを提供してくれたからだ。優良な井戸水に恵まれない大阪では、長らく淀川の水を生活用水として利用していた。 淀川で汲んだばかりの水を売り歩く行商人たちの声が、町内に響く。船場や北浜からながめて上流にあたる現在の都島近辺の大川一帯は、別荘地になっていた。水も空気も澄んだ青湾。船場の商人たちにとって、大川上流はあこがれのリバーリゾート地だった。
文人たちが千人規模の大茶会を開催
大坂では盛んにお茶会が開かれた。主役は文人と呼ばれた知識人だ。経済活動と文化活動は対立しない。経済人が芸術文化を追求し、博物学者の木村蒹葭堂(けんかどう)らの学者は、経済人との交流を拒まない。アマとプロの区別も問わない。文人たちに共通していたのは、煎茶(せんちゃ)をこよなく愛することだ。 互いに招待し合って談論風発。夜が更けるのも忘れて、語り合っては刺激的なひとときをすごした。テーマは茶道具の批評から始まり、文学、政治、社会など、森羅万象におよんだ。お茶会は単にお茶を愛でるだけではない。議論そのものを味わう文化サロンであり、千客万来のカフェだった。 水がきれいな青湾はお茶会にもってこいの立地だった。最初にご当地に着目したのは、豊臣秀吉だった。風流人らしく、自身で青湾と名付けて、茶会を開いた。青湾は400年以上の歴史を重ねてきたことになる。 江戸期に入って、青湾の水を使い、ときには千人以上が出席する大茶会が企画された。青湾に点在するあちこちの別荘で茶席が設けられ、文人たちは何席もはしごし、旧交を温め合い、新たな出会いを得て知的興奮に酔いしれた。 さながら煎茶のテーマパークだ。地方からも文人が駆けつけ、自慢の茶道具の鑑定を依頼したという。もとより文人として勉強不足は避けたいところだが、少し背伸びをしながら、「通ぶる」遊びも否定されない。たとえ論破されても、その悔しさが勉強に駆り立てた。何ものにもとらわれない自由な態度が最優先されていたからだ。