渋谷ハロウィーンの文化論──「騒乱・聖地・仮装」
仮装は自由からの解放
マンガ、アニメ、ゲーム、各地のゆるキャラ、コスプレなども含めた現代日本のアイドル的キャラクター文化に共通するのは「リアルではない」という性格だ。 映画文化でもテレビ文化でも、リアルの映像と音声が再現(現前)される。しかし現代のキャラクター文化は、リアルではないこと自体に意味がある。そしてだからこそ、渋谷というリアルの空間に集合することに意味がある。 仮装は、よく評論家が口にする表現を借りれば、日常の人格からの一時的解放であり、社会的束縛からのつかの間の自由である。 しかし見方を変えれば逆に、自由と中立と普通からの解放かもしれない。人々は、日常の普通の人間であることによる自由と中立から、特殊なキャラクター(性格)をもった何者かに変わることによって、強い力と使命を帯びることを欲しているのではないか。仮装は、束縛からの解放ではなく、むしろ自由からの解放であり束縛を希求しているのではないか。ハリー・ポッターにも、魔女の宅急便の主人公キキにも、強い使命と束縛がある。 近代社会の文化は、よりリアルであることに価値があった。しかしリアルでないことに価値がある文化は、ネット社会が近代(=科学技術時代)以後の新しい性格をもつことを示しているのかもしれない。
100年の革命と50年の沈黙
それにしても1970年前後を最後に、ほぼ50年間、若者の政治的騒乱が姿を消した。これはどうしたことだろう。 振り返って見れば、60年前後には、全学連を中心に国民的な安保反対デモが繰り広げられ、50年前後には、津々浦々の労働争議で赤旗がひるがえった。戦前は、血盟団事件から、5・15事件、2・26事件など、若者が決起するテロ(クーデター)事件が続いた。大正期には、民本主義からプロレタリアの闘士が誕生し、明治期には、自由民権の壮士たちが大言壮語。幕末には、尊王攘夷の志士たちが暗殺を繰り広げた。 つまり19世紀後半から20世紀後半までの100年間、常に若者たちの政治的騒乱が続いていたのだ。それが時代を変え、時には社会を回天させた。若者たちは100年の革命に向かっていたのだ。 しかしこの50年間、若者は沈黙している。日本だけでなく、アメリカでも、ヨーロッパでも。騒乱があったのは、社会主義圏とイスラム圏であった。 近代化する社会では、教育によって政治と社会の問題に目覚めた若者たちの騒乱が起きるもののようだ。それは人口に対する大学生の割合と比例しているのかもしれない。そしてこの50年間、先進国の若者は政治的眠りについている。 若者たちは、個人競争の時代に入ったようだ。 インターネットによってチャンスが個人的にフラット化したこともある。グローバル社会とは個人的な大競争社会なのだ。資本主義における、コミュニティーのストレスと歪みは、個人のストレスと歪みにシフトした。 「若者の政治的騒乱=近代化への変動」だとすれば、現在は近代化を終えた社会であろうか。われわれ団塊の世代は、近代化最後の時代を生きたのだろうか。トランプ以後の自国主義潮流は、長く続いた革命時代の揺り戻しであろうか。 こう考えてきたとき、渋谷ハロウィーンに集まった若者たちの政治性のなさが、テロや難民やデモや選挙戦が激化しつつある海外と比べても、クッキリとした特徴として浮かび上がる。しかしそれは現代の日本社会を写しているのだ。そしてこのネット時代に、少なくともリアルの空間に集結し、何らかのアピールをするエネルギーがあることは頼もしいような気もする。目くじら立てて非難するほどのこともないだろう。