紅白司会の有吉弘行。芸能界の泥水をすすりながら「日本芸能界のてっぺん」をとった有吉の「あだ名」に救われ続けた芸人人生
無名の若手芸人に見える才能の片鱗、1996年の有吉弘行
第74回NHK紅白歌合戦の司会に選ばれた有吉弘行。彼の最初のブレイクとなった『進め!電波少年』のヒッチハイク企画「ユーラシア横断ヒッチハイク」はご存じだろうか? その番組だけでなく、旅の記録を収めたベストセラー『猿岩石日記』にも、無名時代の有吉が残した爪痕があった…。テレビ番組に関する記事を多数執筆するライターの前川ヤスタカが、同書を熟読し今に繋がる才能の原点を考察する。 【画像】22歳のころの有吉弘行が写る『白い雲のように』(日本コロムビア)のジャケ写
有吉弘行が上りつめた「日本芸能界のてっぺん」
みなさんは「日本芸能界のてっぺん」と言われると何を想像するだろうか。 人によっては東京ドームで連日超満員コンサートかもしれないし、年間興行収入ナンバーワンの映画の主演かもしれない。人によって想像する頂点はさまざまだ。 しかし「NHK紅白歌合戦の司会」が頂点の中の一つであることに異論はないだろう。 これまでに紅白の司会を経験した芸能人は100人に満たない。そんな限られた人しか上れない頂に、2023年、有吉弘行の名前が刻まれることとなった。 すでに各局で冠レギュラー番組を持つ有吉。NHKでも長く『有吉のお金発見 突撃!カネオくん』の司会を務めており、2022年にはゲストとして紅白出場した経緯も考えると、司会に選ばれてもまったくおかしくはなかった。 それでも多くの人がこの人選には驚いたことだろう。いくどとなく芸能界の泥水をすすりながら生き残ってきた彼が、ここまで上り詰めたということに。 ご存じのいる方もいるだろうが、有吉は日本テレビ『EXテレビ』の企画を通じて、オール巨人の弟子となり芸能生活をスタート。その後、地元の友人であった森脇和成とコンビ・猿岩石を結成し、現在も所属する事務所・太田プロに加入した。 そして1996年。人気番組『進め!電波少年』の企画「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」の挑戦者に選ばれ、一躍大人気となった。 今回は有吉のある種の原点、ヒッチハイク企画中の日記を本にまとめた『猿岩石日記』(日本テレビ放送網)を改めて読んでみようという話である。