「エリートなどくそくらえっ!」年俸540万円、落合博満は12球団で“最も給料が安い”四番バッターだった…そして現れた“8000万円ルーキー”原辰徳
40歳での鮮烈なFA宣言、巨人へ電撃移籍した落合博満……1993年12月のことだった。 あれから30年。巨人にとって落合博満がいた3年間とは何だったのか? 当時を徹底検証する書籍「巨人軍vs.落合博満」が発売され、即重版と売れ行き好調だ。その書籍のなかから、「じつは一度消えた“巨人・落合博満”」を紹介する。何度もウワサされたロッテ落合の巨人移籍はなぜ実現しなかったのか? 【全2回の前編/後編も公開中】 【貴重写真】「タキシード姿がカッコイイ…」結婚式での落合博満31歳&信子夫人、見たことある?&「原辰徳の学ラン姿」、落合1億5000万円豪邸まですべて見る(20枚超) ◆◆◆
「12球団で最も給料の安い」四番バッター
「いまでもぼくは試合前がおそろしい。この世界は結果でしか判断してくれんでしょう」(週刊明星1981年7月16日号) プロ3年目の1981年、レギュラーに定着した27歳の落合は、選ばれし者の恍惚と不安の中でバットを振っていた。自身初の打撃タイトル争いを繰り広げ、監督推薦で初出場したオールスターの第2戦では、西本幸雄監督が「これからのパ・リーグを背負って立つ男だから」と全パの四番で起用した。新聞の打率10傑に載る自分の名前にまだ現実感はなく、契約金で横浜市鶴見区にマンションを買ったが、年俸は中堅サラリーマンクラスの推定540万円。好物はラーメンライスで、川崎球場近くの喫茶店「オレンジ」でラークを吸って気分転換という、12球団で最も給料の安い庶民派四番バッターでもあった。
“ゴールデンルーキー”原辰徳のデビュー
そして、落合がようやく辿り着いた夢舞台、1981年オールスター戦で、世間の注目を一身に集めていたのが、5歳年下のゴールデンルーキーだった。セ・リーグ三塁手部門で掛布雅之(阪神)をおさえてファン投票1位になった、巨人の原辰徳である。 「Nが去りOがバットを置いたいま、転換期のプロ野球を救うのはタツノリしかいないの声がふくらむ。実力、人気、スター性。果たしてタツノリは“80年代の牽引車”になれるか」(週刊ベースボール1980年12月8日号) 1980年秋、長嶋茂雄監督が男のケジメで辞任し、19年連続のシーズン30本塁打を達成した王貞治も電撃引退。巨人は、いや球界は新たなスーパースターを欲していた。「週刊ベースボール」同号にはミスター本人から、大学球界のプリンス原への特別寄稿「君は私の後継者になれる」が寄せられ、ドラフト会議で4球団が1位競合するも、藤田元司新監督が当たりクジを引いた直後に、報知新聞の号外『原 巨人入団 長島超えろ若大将』が街で配られた。「週刊読売」では『新巨人の星 原辰徳物語』の短期集中連載が始まり、年明けの多摩川グラウンドには背番号8目当てに1万人ものファンが殺到。甲子園での父子鷹から、ドラフト1位の巨人入りまでの王道ストーリーをあらゆるメディアが追いかけ、タツノリフィーバーは日本列島を揺るがした。
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