友人は殺され、自宅は全壊した…もはや10月以前のガザは存在しない 眼前で泣きじゃくる6歳児は「攻撃をやめてほしい」と訴えた【共同通信ガザ通信員手記】
▽物資が足りない 南部へ移動してからは避難所や病院への取材が増えた。北部の住民が南部への避難を強要されたため、南部はとにかく人であふれている。多くが親族や友人の家、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)運営の学校、あるいは病院に身を寄せるが、場所が足りない。生きるための物資も十分にはない。 ハンユニスのナセル病院では、廊下に患者も避難者も横たわっていた。その廊下で、麻酔なしで負傷者の傷口を縫う医師らの姿があった。外科医師ウンムイスラムさん(32)は「手術室に空きはないし、麻酔も十分にない。ガーゼも薬も足りない」とやつれた表情で力なく語った。「停電も頻繁で、治療記録を入力するパソコンももう立ち上がらない」 病院では中庭にテントを張り、避難者を受け入れている。しかし、食料や水が全員には行き届かないのが実情だ。十分に浄水されていない地下水を飲んでしのぐ避難者もいる。「何も飲めないよりは多少塩辛くても、水を飲みたい」。そんな声が聞こえてくる。病院に避難していた小学生ユスフ君(6)は私の前で泣きじゃくった。「水も食べ物もいらない。ただ、攻撃をやめてほしい」
国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)は学校にも入りきらない避難者のため、畑だった空き地に数百のテントを設置した。布製のテントが所狭しと並び、ロープに干した色とりどりの洗濯物が風に揺れる。応急的につくられた「難民キャンプ」だが、こうしたテントは1948年のイスラエル建国に当たり約70万人のパレスチナ人が故郷を追われた「ナクバ(大惨事)」を想起させる。ガザ住民の多くはその子孫で、ナクバの記憶は私を含めパレスチナ人に染みついている。ある高齢男性は「第2のナクバだ」と言った。周囲には、テントにさえ入れない避難者が木の下に段ボールを敷いて眠っていた。 病院も銀行もモスクも学校も、民間施設が次々と破壊されている。もはや10月以前のガザは存在しない。復興にどれだけ時間がかかるのか。ふと考えるが、戦闘そのものが終わっていない。 私は今、ハンユニス北部の友人宅に家族と共に十数人で身を寄せている。イスラエル軍の攻撃は激しさを増し、近くが爆撃されることもしばしばだ。多くの住民が避難し始め、私も再避難を考えるが、行く当てがない。
× × × ハッサン・エスドゥーディー 1997年、ガザ市生まれ。大学卒業後、UNRWAや地元メディアを経て、2023年から共同通信ガザ通信員。