友人は殺され、自宅は全壊した…もはや10月以前のガザは存在しない 眼前で泣きじゃくる6歳児は「攻撃をやめてほしい」と訴えた【共同通信ガザ通信員手記】
パレスチナ自治区ガザを実効支配するイスラム組織ハマスとイスラエル軍との戦闘が始まり2カ月以上が経過した。現地で取材を続ける共同通信ガザ通信員、ハッサン・エスドゥーディー氏(26)は友人を亡くし、爆風による窓ガラスの破損で自身も負傷した。北部ガザ市から避難した南部ハンユニスには避難者が押し寄せ、水も食料も不足する。エスドゥーディー氏が手記を寄せた。(翻訳、構成は共同通信エルサレム支局長 平野雄吾) 歴史が生んだ「世紀の難問」…イスラエル、パレスチナの争いはなぜ始まった 共同通信記者が基礎から解説
▽ろうそくの火で執筆する 10月7日に戦闘が始まった直後、父(50)や母(43)、2人の兄がガザ市からハンユニスの友人宅へ退避した後、私はガザ市にとどまり、オフィスで仕事を始めた。そこは宿舎にもなった。ガザ保健当局やハマス、国連諸機関の発表をまとめ、街で市民に取材し、共同通信エルサレム支局に伝えるのが私の仕事だ。イスラエルは10月9日以降、「ガザを完全に封じ込める」として燃料や電気を遮断、オフィスの電気も時折停電し、ろうそくの明かりの下で執筆することも多くなった。 食事は1日1回、ツナ缶とパンになり、シャワーを浴びる代わりに、ペットボトルの水で頭を洗った。16階にあるオフィスの窓からは空爆の炎や黒煙が見え、市民の泣き叫ぶ声が響く。爆弾は陸海空から撃ち込まれ、ビルそのものが振動に襲われる。 取材の過程で情報収集をしていると、友人の死にも直面した。同じ大学を卒業し、同じジムに通うハレド・ジャダール(26)。写真を撮るのが好きな男だった。記者仲間のサイード・タウィール(35)。料理が得意な男で、よく一緒に食事をした。冗談を言うのが好きで、戦闘が始まってからも記者仲間を和ませてくれたが、「プレス」と書かれたベストを着ていたにもかかわらず、路上で取材中に殺害された。
私自身も被害に遭った。10月29日夜、近くの電気通信施設を狙った軍艦による艦砲射撃でオフィスの窓ガラスが割れ、破片が飛び込んできた。デスクを離れ慌てて身を伏せた。激しいほこりがオフィスを覆い、視界を失う。慌てて1階まで階段で避難した。気が付くと、腕には無数の切り傷があった。この日の晩は床で眠った。 これを機に私はガザ市残留に身の危険を感じ、ハンユニスの家族との合流を決めた。だが、避難するのも一筋縄ではいかない。記者仲間1人を助手席に乗せ車を運転中、数メートル先に爆撃があったのだ。急ブレーキで停車、車を降りて身を伏せた。煙が収まり前方を見ると、直系5メートル、深さ3メートルほどの大きな穴が目に入る。まるで私たちを標的にしたかのようだった。 ▽初めて目にしたハマスの「勝利」 戦闘開始日を思い出すことがある。自宅はガザ市東部、イスラエルとの境界から5キロにあった。衝撃音で目が覚め、窓から外を眺めると無数のロケット弾がイスラエルに撃ち込まれている。モスク(イスラム教礼拝所)から流れる「アラー・アクバル(神は偉大なり)」の絶叫。イスラエル軍の報復攻撃が容易に予想され、すぐに避難を開始した。 見たことのない光景が目に飛び込んでくる。イスラエル軍の車両を運転するハマス戦闘員、イスラエル兵の遺体を引きずり、服を引きはがす人…。「勝利の祝砲」が空に撃たれる。らんちき騒ぎだった。自宅はその後、全壊したと聞いている。