中東戦争が“生んだ”ミニとゴルフ もたらされたFF車「革命」
現代のクルマ、それもいわゆる小型車はそのほとんどがFF方式だ。そのFFが技術史としてどのように進歩してきたかは前編に書いた通りだ。しかし自動車産業は技術だけで動いているわけではない。目まぐるしく変転する国際情勢にも多大な影響を受ける。今回はRRからFFへの技術的飛躍のきっかけになった第二次中東戦争(スエズ動乱)と、そのFFの普及に大きな影響を及ぼした第四次中東戦争を考えてみたい。 【前編】ミニの「FF」が時代を変えた 「RR」の牙城突き崩す
中東戦争と英国の凋落
スエズ運河はエジプト領に属し、東西世界を結ぶ海上物流の要衝だ。開通は1869年。地中海(欧州)とインド洋~太平洋を結んでおり、スエズ運河がなければ、すべての物流はアフリカ大陸を大きく迂回しなくてはならなくなる。これによる輸送コストの増加は80%にも及ぶと言われている。 この東西海路の要衝スエズ運河は、エジプト王国時代、実質的に英国の支配下にあり、フランス企業が経営していた。言い換えれば英仏両国が自国の都合で自由に使える状態にあったと言ってもいい。ところがエジプト革命によって国王が退位し、共和制政府が開かれると、新政権を掌握した反英愛国主義者で軍出身の大統領、ガマール・アブドゥル=ナセルは、スエズ運河に駐屯していた英国軍を交渉によって撤退させ、スエズ運河の国有化を宣言した。
時代は1955年にNATOへの対抗としてワルシャワ条約機構が成立したばかり。世界の国々は米ソ、つまりNATOとワルシャワ条約機構どちらに組みするかの踏み絵を迫られていた。ナセルはアラブ諸国に呼びかけてこの踏み絵を拒否し、米ソどちらにも属さない汎アラブ主義を標榜。後にシリアとともに短期間ながらアラブ連合共和国を成立させることになる。 エジプトがオスマン帝国から独立して以後、エジプト王国の保護国となっていた英国は軍の撤退によってスエズ運河の利権を失うことになる。まだまだ植民地主義の残滓(ざんし)がそこかしこに残る時代である。英国は激怒し、フランスと結んでエジプトと敵対するイスラエルを支援。1956年に英仏の意を汲んだイスラエル軍がエジプトに侵攻し第二次中東戦争が勃発するのである。