「大吉原展」が炎上。遊廓はこれまでどのように「展示」されてきたのか? 博物館や遺構の事例に見る享楽的言説と、抜け落ちる遊女の「痛み」(文:渡辺豪)
相次ぐ「大吉原展」への批判
ここ数日、「大吉原展 江戸アメイヂング」(以下、本展)がSNSを賑わせている。本展は、かつて江戸/東京にあった公娼街・吉原遊廓を取り上げたもので、今年3月から東京・上野の東京藝術大学大学美術館で開催される美術展である。本展公式サイトのステートメントには「『江戸吉原』の約250年にわたる文化・芸術を美術を通して検証(改行)仕掛けられた虚構の世界を約250件の作品で紹介する」とある。 マンガ家・瀧波ユカリ氏のX(旧Twitter)では、前述のステートメントに続く序文を指して、「ここで女性たちが何をさせられていたかがこれでもかとぼやかされた序文と概要。遊園地みたい。」と非難するコメントをポスト。ここを起点にSNS上での意見対立を生んでいたようだ。 筆者の私は遊廓を専門に扱う書店・カストリ書房を経営しているが、同店は吉原遊廓が戦後に何度か看板を掛け替えて現在は吉原ソープ街と呼ばれる性風俗街に、2016年にオープンさせたものだ。来店する購入者は8~9割が女性であることから、一連の動向にも、女性あるいは女性視点から提言するユーザーらが関心を寄せていたものと推察する。 本展にも通じる「江戸文化発祥の地」「煌びやかな遊興空間」「街の賑わい」といった文脈の言説を、ここでは便宜上、享楽的言説と呼ぶことにする。こうした言説はいまに始まったことではなく、商業出版物やネットを見渡してみれば、むしろ享楽的言説で満たされている。その意味で、本展を巡る動向は、発信者とテーマの掛け合わせが問われているものと理解できる。これまで遊廓なるものはどのように「展示」されてきたのか、私の取材成果を交えて紹介したい。
遊廓に関する展示の事例から
近年に絞ってみても、遊廓を取り上げた公共施設による常設展/企画展は本展に限らない。2021年、東京都立の江戸東京博物館は、約20年ぶりにジブリ作品を抜いて興行収入1位となったアニメ『鬼滅の刃』シリーズ遊郭編に絡めて、自館の展示を「煌びやかな遊郭の世界をご覧ください」と紹介、来場を呼びかけた。後日謝罪に及んでいる。 管見の限り、同館には肝心の吉原に言及する解説パネルは2枚しかなく、仮に吉原遊廓に「煌びやかな」側面が備わっていたとしても、それを理解できる環境とは言い難い。享楽的言説から訴求を図る姿勢からは、歴史を伝えるはずの同館が、吉原遊廓の歴史的意味づけを棚上げしてきたツケが窺えるものだった。 昨年2023年、横浜市立の横浜市歴史博物館では企画展『浮世の華 描かれた港崎』を開催、地元横浜にあった港崎(みよざき)遊廓を取り上げた。同館が所蔵する浮世絵を展示して同遊廓の成り立ちや地域社会での意味づけを解説するものだが、展示タイトルで明確に打ち出したとおり〝描かれた〟姿として一歩引いた展示がなされた。筆者も拝観したが、解説パネルには「当時の社会が仮託した遊廓の姿」といった文脈が織り込まれ、丁寧な展示設計のもと、充実した見学ができた。 性的搾取への問題意識が高まるなか、現状維持の展示と世相を読み違った広報、キャッチアップした世相を反映した展示、これらの明暗を2例はわかりやすく示している。わずか2年間の隔たりだが、問題意識が急速に社会に浸透している様も同時に窺い知れる。挙げた2例は歴史博物館であり、美術展に求められる視点とは異なるものだろう。ただし美術展であれ史実を足場とするのであれば、歴史や当時を生きた人々への丁寧な取り扱いが求められ、併せて近年の社会課題と隣接するテーマならば、一層慎重さが求められる。加えて、アートに社会課題を克服する原動力を期待するならば、「性売買とアート」は、むしろ核心に切り込むポテンシャルを持つテーマでもあったのではないか。が、反対に弊習への加担を指摘され、少なくとも現時点では「つまづき」以上の印象を残している。