『光る君へ』藤原道隆の後継になるべく「内覧」のポストに就いた伊周、ドラマでは描かれなかった見苦しい“一悶着”
■ 伊周が「内覧」になるも不満だったワケ このときの経緯については、藤原実資が日記の『小右記』に詳しく記している。なんでも一条天皇の命令を受けて、藤原斉信(ただのぶ)が伊周にこう伝えたという。 「関白が病を患っている間、さまざまな文書や天皇の命令は、まず関白にご覧いただき、続いて内大臣にご覧いただいて、天皇に申しあげるようにしてください」 関白である道隆の次に、内大臣の伊周を重視するということで、何の問題もないように思える。だが、伊周は「私が聞いているのとは違う」と難色を示し、「関白が病を患っている間はもっぱら内大臣に委ねる、と聞かされていた」と主張。こう噛みついた。 「それにもかかわらず、まず関白に見せてから、続いて私に文書を見せるように、とはいかがであろうか?」 伊周からすれば、年齢が若い分、みくびられてはいけないという思いがあったのだろうか。また、一条天皇が伊周にとって「妹の夫」という気安さもあったのかもしれない。 伊周からの抗議を受けて一条天皇は「では、そのことを関白に伝えて、その指示に従うように」と言ったという。道隆が、かわいい息子の主張に「頼もしい」とまで思ったかどうかは分からないが、伊周の主張は受け入れられることになった。 いかにもバカらしい経緯で、実資も日記に「大いに奇異の極まりである」と書いている。さらにこう断言した。 「必ずこのことは失敗するであろう。昔からいまだこのようなことを聞いたことがない」 実資だけではなく、公卿たちが皆ため息をつく様子が見て取れるようだ。だが、伊周の内覧にまつわる騒ぎは、ここからもまだ一悶着あった。
■ 伊周陣営の姑息な「書き替え」は防がれたが… 長徳元(995)年3月9日、一条天皇は、伊周の抗議を受け入れて「関白が病の間、太政官・外記の文書を内大臣に見せる」という宣旨を下すこととなった。 ところが、伊周陣営は、油断も隙もない連中ばかりだったようだ。伊周の外戚にあたる高階信順(たかしな の のぶのり)が「関白が病の間」を「関白の病に替えて」という文章に書き替えろと、担当者に働きかけたというのである。 「病に替えて」となると、道隆の病が治って回復したり、あるいは死去したりしたとしても、変わらず伊周が内覧を務めるということになる。全く意味合いが変わってきてしまう。 結局、この企ては防がれるが、しぶとい信順は「伊周に関白職をお与えください」と一条天皇に奏上までしたという。 まるで「もう面倒なことは考えずに、伊周に関白をやらせましょうよ」と言いたげだが、もちろん一条天皇に却下されている。 このあたりの経緯が、ドラマでは前述した「一条天皇は伊周に内覧を許すが、そこには〈関白の病の間〉という条件がつけられていた」というナレーションに凝縮されている。 ドラマを見ていると、伊周の野心に嫌気が差してしまうが、実際にはもっとややこしい経緯があったのである。