19センバツ星稜 第4部・「伝統」をまとう/2 「耐えて勝つ」体験伝え /石川
<第91回選抜高校野球> ◇83年春 聖地でミラクル 箕島(和歌山)との延長十八回の死闘(1979年夏の甲子園)は強烈な印象を残し、80年代には星稜でプレーすることを夢見る県内球児が多くなった。「家族みんなで晩ご飯も食べずに見ていましたね。『あのユニホームを着て甲子園に挑みたい』と思った」。箕島戦当時、高松町(現かほく市)立高松中2年だった荒山善宣さん(53)もその1人だ。現在は星稜のコーチとして、投打で技術指導を行う。 小松辰雄さん(元中日)を擁して4強入りした76年に、79年の箕島戦と、星稜の甲子園=夏というイメージがあるが、センバツでもチームの存在感を知らしめたのが荒山さんがエースで4番を務めた1983年である。 熊本工との1回戦。先発した荒山さんは一回に2失点した。「山下(智茂)監督には『ふわつくな』と言われましたけど、やはり緊張していました。そこからは『低め低めに、丁寧に投げろ』と」。徐々に持ち直すと、三回には自身の適時打などで4点を挙げ、逆転した。 この試合、何より観客を驚かせたのは荒山さんの投球だった。83年3月27日付の毎日新聞は「ミラクル投法」との見出しで、こう伝えている。 <初球上手からのカーブ、2球目は横手からの直球、3球目は下手からのカーブといった具合に工夫して> 中学までは「びゅんびゅん放ってた」。ただ、その後左肘を故障し、球威に自信を持てなくなっていた。奇策は「勝ちたい一心ですよね。相手の目線を変える狙いもあった」と荒山さん。熊本工の打者のタイミングを狂わせ凡打の山を築く。八回に頭部に死球を浴びて完投はならなかったが、終わってみれば11-4の快勝だった。 星稜は81年春~82年夏と4季連続で甲子園に出場。県内高校野球界では強豪の座を確固たるものにしていた。ただ、全国では苦戦が続いた。荒山さんが2年生で4番を張った82年夏までは3季続けて初戦敗退。荒山さんは「私たちの代になったら甲子園に出られないんじゃないかと言われていた」。83年センバツの切符を手にしても、重圧の方が大きかったという。 だからこそ、久々の甲子園での勝利で、肩の荷が下りた気がした。「大喜びした後はみんなで爆睡した記憶しかないですね」。病院搬送されるほどだった死球の影響が心配されたが、横浜商(神奈川)との2回戦は大会屈指の右腕・三浦将明投手(元中日)と投げ合い、1失点完投。0-1で惜敗も結果的に準優勝する相手との善戦は「自信にもなったし、ちょっとした差で勝利が逃げることも知った」と語る。 高校卒業後は北陸銀行で29歳までプレー。自営業の傍ら、2011年からは母校のコーチを務めている。「大事なのは、『聞ける自分』を作ること。僕の時も山下監督は厳しかったけど、言うことをしっかり聞いて(勝利という)ご褒美を得た。『耐えて勝つ』とはそういうことだと思う」。同じユニホームを着る後輩たちに忘れてほしくないことだ。【岩壁峻】