【証言】「砂糖で1日を過ごせと…」引き揚げ後も続く飢えとの戦い…山田洋次監督 戦争の原体験2
日テレNEWS
8月15日の終戦の日を前に、「男はつらいよ」など数々の名作映画を手がけた山田洋次監督が、自身の戦争体験を語りました。
■日本に引き揚げても続いた“飢え”
敗戦から約2年後、旧満州の大連から博多港へ引き揚げることになった山田監督。帰国後は、山口県宇部市の親戚をたよることになります。 山田監督 「日本に帰れば、こんなつらい思いをしないで済むようになるんだということで…ようやく引き揚げる日が来たんだけど、日本もある意味で、食料品は同じだったね。飢餓状態は日本に帰ってもずっと続いたね、それから」 「考えてみたら僕の世代というのは、だいたい小学校の4、5年の頃から始まって大学を出るまで、ずっと飢餓状態だったと言えるかもしれないね。お腹はすきっぱなしでね」
■「砂糖で1日を過ごせと…」帰国しても貧しい生活
山田監督 「(旧満州から引き揚げる前は)日本の食糧難なんて、何の情報もないんだから。日本がどうなってるのか、全くわからないわけだ。日本がこんなに食糧難になってるなんて、想像もできないわけよ。だから驚いたね、日本に来てね」 「1日にお米が、2合何勺とか、決まってんだよな、全部配給でね。 お米が配給になれば、まだいい方。お米も無いから代わりに、麦だとか、代わりにサツマイモだとか。一番ひどい時は代わりに、黒砂糖が来たことあったね。 要するに外国から援助物資がいろいろ来るわけだ」 「(黒砂糖は)精製していない真っ黒けなね。 甘いことは甘いんだけども…そういう砂糖が、カロリー計算して、換算してくるわけよ。 だから、(配給のお米が)1日に、2合5勺が1人分だとすると、その分のカロリーを計算して、何十グラムかの砂糖が来るわけ。それでもって1日過ごせっていってるんだからね。 ずいぶん乱暴な話なんだけど、そんな時代があったね」
■「売れ残ったらいつでも来なさい」…貧しい時代に勇気をくれた人情
山田監督 「逆に言えば、そういう時代だからこそね、“人の優しさ”みたいなことは忘れられないってかな。 色々なことがあったけども。中学3年なんだけどね。でも、親父はずっと収入がないから、僕たちアルバイトするわけよ。いろんなアルバイトあったね」 「焼け跡を片付けに行くアルバイトとか、進駐軍の病院に使役って言うかね、掃除したり、草取ったり、石炭を運んだり、そういう労務者として、働きに行くアルバイトとか。あと闇屋ね。まだ、ほとんどの物資が自由に売買されてない時代だから、お米をはじめとしてね。だから闇物資を買わないと食っていけない。とても値段も高いんだけど。その闇物資を運搬するアルバイトがあったわけだ。 遠くまで汽車で運びに行ったりね」 「これも闇の一種なんだけども、僕のいた山口県の宇部市って街は海岸だから、海岸に小っちゃな掘っ立て小屋みたいな工場を作って、そこで、ちくわを製造してるのね。 まともな肉じゃないんだよ。 フカ(サメ)とかさ、エイとか、そういう安い、質の悪い肉を使ってちくわをを作るんだ。 サメの肉なんて、アンモニアの臭いがして、とても普通は食べられないもんなんだけど、当時はそれでも貴重だったんだね」 「それで、その海岸の工場に行って、それを仕入れるのね。 みかん箱を持っていって。50本60本買っておいて、自転車に乗って、街の色んなお店に卸して歩くの。 『おばさん、ちくわいりませんか?』って言って。『10本置いていきなさい』なんてね」 「ある時にたくさん残っちゃったんだよ。30本も40本も。それで困ったなあと思って。 家に持って帰って、みんな食べたとしても大損だしね。 それでふと考えたのが、山陽線の西宇部という駅があって、その駅の近くに、民営の競馬場(当時の草競馬)があったんだな」 「その競馬場に行くと、周りに屋台店がいっぱいになるわけだ。焼き鳥や、おでんなんかを作ってるから、そこに行ったら売れるんじゃないかなと思ってね。はるばる自転車をこいで、そこまでいって。それで一軒の屋台店に入って…本当に粗末な屋台店だよね。 そこのおばさんに、『あの…ちくわはいりませんか?』と。おでん屋さんだったけどね」 「そのおばさんが俺に、『あんた中学生かい?』なんて聞いて、『そうなんです』と。『中学生なのに働いているのかい?』なんて言うから、『引揚者だからね。父親の仕事がなくて学費稼ぐために働いています』と言ったら、『(残ったものを)みんな置いていきなさい』っていうの」 「『おばさんが引き取ってあげるから』『みんないいんですか?』『いいわよ』って言って。それで『坊や明日からね、もし残ったらいつでも来なさい。いつでもおばさん引き取ってあげるよ』そう言ってくれたのね」 「なんていうかな…何だか嬉しいっていうか、幸せって言うかな。帰り道に自転車で、なんか涙出てくるんだよ。なんていうか嬉しいんだな。 大げさに言うと、生きていく勇気を与えられたっていうかね。もちろん『よし明日から余ったら、いつでも、あのおばさんの所に行けばいいんだな』ということもあるよ」 「それを含めて、おばさんが『いつでもおいで』と、言ってくれた時の、何か思いやりみたいなものが、とても嬉しくてね。 少年の僕は、“頑張って生きていけばいいこともあるんだ”という、勇気かな。 そんなものを与えられた気がしたね。もちろん翌日からは行かなかったよ。一度もね」 「だから、僕にとっては本当"マドンナ"みたいな人だね。あのおばさんはね、もう顔も覚えてないけども、そういうことが時々起こるわけさ。 本当にいろんなことして働いたよ」