「子どもの頃から“役者になりたい”と」西田敏行さんと暮らした福島県郡山・幼馴染が語る「名優の出発点」
■幼少期の西田さんを知る幼なじみの宮司さんが語る「名優の出発点」
西田さんは幼くして父を亡くし、5歳の頃に母親が再婚したことで、伯母夫婦の西田家に引き取られた。生活は厳しく、家族は地元にある香久山神社の社務所に住んでいたという。 また、養父に連れられて通った映画館でチャンバラ映画に熱中し、少年時代から映画のスクリーンに映る自分の姿をぼんやり夢想していたことも、2017年10月放送のNHKの『ファミリーヒストリー』で明かされていた。 小サイトは香久山神社――かつて西田さんが社務所に住んでいた神社に問い合わせたところ、西田さんの7歳年上で幼なじみだという宮司さんが、西田さんとの思い出を語ってくれた。 「印象に残っていることはいっぱいありますけど、子どもの頃から“役者になりたい”ということをよく言っていましたね。テレビを見てはチャンバラごっこの真似をしたり、神社の裏山でもチャンバラごっこ……愉快な少年でしたね」(宮司さん、以下同) 西田さんは、NHK大河ドラマの最多主演記録(4回)保持者であるほか、『新・平家物語』(1972年)~『鎌倉殿の13人』(2022年)まで、計14作の大河ドラマに出演している。地元の映画館でチャンバラ映画に熱中し、神社やその裏山でしていたというチャンバラごっこが、時代劇でも大きな存在感を放った名俳優の原点と言えるのかもしれない。 「上京後も、たまに郡山に戻るとウチにも寄ってくれましたね。私が中学生の頃、彼は小学3年生くらい。年が離れていたので、子どもの頃にチャンバラごっこしたくらいで、その後、(成長してからは)遊んでいませんでしたけどね……。 あの時代は非常に住宅不足でね。西田一家は、ウチの隣にある社務所に住んでいただいていました。彼が住んでいた社務所は改修しましたけれど、まだ同じ場所に残っています」 一人っ子の西田さんは、宮司さんや近所の子どもたちと、外でしょっちゅう駆け回って遊んでいたという。 「山の中でかくれんぼしたり、友だちをひもで縛って遊んだり(笑)。 それで、彼は俳優になりたいと言って、中学を卒業してから、東京に行ってしまいましたね」 宮司さんいわく、上京後も西田さんは何度も帰郷し、同級生と泊まりがけで温泉に遊びに行ったこともあったという。 「私は年が離れていたからよく分かってはいませんが、友だちはたくさんいたようですね。私が最後に西田さんと会ったのは、『人生の楽園』(テレビ朝日系/※西田さんがナレーションをしていたドキュメンタリー番組)の取材のときだったから……10年以上前でしたね。そこでお会いしたのが最後ですね……」 神社の社務所に住んでいた幼少期から名俳優になった最近まで、多くの友人がいた西田さん。人当たりの良さ、いつでもユーモアを忘れない人柄が有名な方だったが、その高いコミュニケーション能力は、多くの友だちたちと過ごしてきた幼少期に培われたのかもしれない。 宮司さんは最後にこう語った。 「彼はとにかく有名人になりました。私としてはとにかく懐かしいですね……ご関係の皆様に、どうかよろしくお伝えください」 養父に連れられた映画館で熱中して観たというチャンバラ映画と、近所の友だちたちとのチャンバラごっこ――故郷・福島県郡山市に名俳優の出発点はあった――。
ピンズバNEWS編集部