松岡功祐、60代半ばで海を渡り中国野球の指導者に! "元気な年寄り"が選手たちの心を掴んだ!!
【連載⑨・松岡功祐80歳の野球バカ一代記】 九州学院から明治大学へ入学。そしてかの有名な島岡吉郎監督の薫陶を受け、社会人野球を経てプロ野球の世界へ飛び込んだ。11年間プレーした後はスコアラー、コーチ、スカウトなどを歴任、現在は佼成学園野球部コーチとしてノックバットを握るのが松岡功祐、この連載の主役である。 【写真】横浜ベイスターズ時代の工藤公康 つねに第一線に立ち続け、"現役"として60年余にわたり日本野球を支え続けてきた「ミスター・ジャパニーズ・ベースボール」が、日本野球の表から裏まで語り、勝利や栄冠の陰に隠れた真実を掘り下げていく本連載。今回は横浜ベイスターズのスカウトを卒業後、なんと中国プロリーグの強豪「天津ライオンズ」のコーチとして60代半ばで新天地へ飛び込んだ松岡の果敢な挑戦を追う。 * * * ほとんどの会社の社員は60歳で定年退職を迎える。しかし、横浜ベイスターズを離れた時に64歳だった松岡功祐に〝老後〟はない。 「ベイスターズでスカウトをやった最後の年に、1カ月だけ台湾で行われていた天津ライオンズのキャンプにサポートで行ったことがあるんです。何が気に入られたのかわからないけど、『そのままコーチをやってほしい』と言われました」 松岡がコーチとして中国に行くことを聞きつけたある選手が野球用品を寄付してくれた。 「ベイスターズでもプレーしていた工藤公康です。春季キャンプに行って、よく彼にはノックを打っていたから、そのお礼ということだったんだと思います。スパイクやグラブ、手袋などをすぐに用意してくれました」 そんな気遣いができる選手はなかなかいない。 「彼は引退してから福岡ソフトバンクホークスで監督も務めましたね。そういうことがさりげなくできる人なんですよ。プロに入った時に監督だった広岡達朗さんの教育がよかったんじゃないでしょうか。 ホテルのレストランで偶然会った時にもあいさつに来てくれたことがあります。スーパースターでしたけど、細やかな気遣いができる人でした」 翌年に北京オリンピックの開催を控えていた2007年、ベイスターズと提携関係にあった中国プロリーグの強豪、天津ライオンズに1年間、派遣されることが決まった。 「中国には、北京、上海、四川など6つのチームがあります。プロ野球のチームと提携していて、日本からもコーチを送り込まれていました。中国国内で4年に一度大きな大会があり、そこで優勝すれば賞金やマンションが与えられると聞きました。 中国と日本では、まったく国として社会体制が違いますが、稼げる人はものすごく稼いでいるという。でも、バスケットボールとか陸上競技や卓球とかに比べれば全然で、野球人口自体は多くない」 オリンピックやWBCなど国際大会に代表チームが出場するが、野球のレベルはそう高くなかった。 「中国代表でも、日本のプロ野球の一軍と戦ったらお話にならない。10点差以上つけられてしまうくらい、実力差がありました」 ■昔の日本プロ野球のような移動風景 松岡が指導のために中国に渡った頃、設備や練習環境にも明らかな差があった。 「日本の高級ホテルみたいなものはほとんどありません。少なくとも、野球選手が宿泊する機会はほとんどない。選手たちが泊まるところは粗末で、移動は夜行列車かバス。僕が経験した1970年代の日本みたいなものです」 松岡は現役時代、試合後に自分でバットケースを持って列車に飛び乗ったことを思い出したという。 「今、試合で使う道具は球団のスタッフが配送をしてくれるから、移動中の選手たちは身軽ですよね。でも、昔はそうじゃなかった。若手なんか、荷物を両手に抱えて大変でした(笑)」 ただ、設備の規模は日本以上のものがあった。