元自衛官、米軍特殊部隊員...海外に別荘を持つ「大金持ち」からホームレスになった波乱万丈人生
荒川河川敷のホームレスを取材する在日中国人ジャーナリスト趙海成氏が出会ったのは、異例の経歴を持つ「兄貴」。一時はホームレスとなり、今はホームレスの支援をしているが、かつては優秀な自衛官だったという
※ルポ第10話:「暴力を振るわれることもある」...「兄貴」が語ったホームレス福祉の現状とは? より続く 【動画】樺太から撤退した船がソ連軍から攻撃を受けて沈没 今日の物語の主人公「兄貴」は、日本の北海道に生まれ、7人兄弟の末っ子である。以下は兄貴自身が語った、家族と彼自身の波乱万丈の物語だ。 彼の父は戦前、北海道よりもっと北の島「樺太」の国境警備隊の軍人だった。 近世以前、樺太にはアイヌ、ウィルタ、ニヴフなどの先住民が居住しており、主権国家の支配は及んでいなかった。近代以降、樺太の南に隣接する日本と、北西に隣接するロシアとが競って、両国の多くの人が樺太へ移住するようになった。 明治38年(1905年)の「日露講和条約」により、北緯50度線を境に、樺太の南半分を「カラフト」として日本が、北半分を「サハリン」としてロシアが領有することになった。当時樺太に住んでいた日本人の数は最も多い時で約40万人に上ったという。 兄貴の父は国境警備隊の小隊長として樺太で駐在する間、そこの銀行家の娘と知り合って結婚した。 第二次世界大戦後、樺太全島はソ連軍に占領された(現在はロシア領)。 父が勤務している国境警備隊全員が、すべての武器や軍服を捨て、ソ連軍が入る直前に民間人と一緒に樺太から引き揚げるよう上司から命じられた。輸送中、3隻の船がソ連軍の潜水艦からの攻撃を受け、1700人以上が犠牲となった。 兄貴の両親が乗っていた船だけが幸運にも難を逃れ、北海道に着いた。 その後は庶民として戦後の辛い日々を過ごした。夫婦の間には10年の間で息子2人、娘5人が生まれた。その末っ子が今日の主役「兄貴」である。
親の後を継いで自衛官に...一時は冬季五輪の選手候補にも
兄貴にこのような父親がいたことから、彼が小さい頃から自衛官になることを志していてもおかしくないことが分かる。 戦後の日本では、軍隊は自衛隊に改称された。兄貴にとっては、父の仕事を受け継ぐことができ、自分の夢を実現することもでき、官職を得ることにもなるので、喜んで志したのだろう。 家族と相談せず、中学卒業後間もなく自衛隊に志願して、18歳の時、自衛官になった。 彼のお父さんは彼に「中学卒業後、マグロ漁船の仕事をしたいか、それとも自衛隊に入りたいか」という質問をしたことがあるという。 その時、彼ははっきり「自衛隊に入りたい」と答えた。軍人だったお父さんは聞いて嬉しかった。実は、息子に自分の後継者になってほしかったのだ。 兄貴は幼い頃から父について格闘技(拳法)を学び、入隊すると特殊部隊に選ばれた。 本人によれば、在隊中、あらゆる面で優れていたという。 冬季五輪には「バイアスロン」という競技種目があるが、この種目は北欧人の軍事訓練に起源がある。選手が銃を担いで雪山に登り、クロスカントリースキーをしながら、射撃をする。選手の体力とスキーのテクニック、射撃能力を競り合うのだ。 この大会には現役軍人の参加が許可されている。兄貴は北海道出身で、3歳からスキーを習い始め、特殊部隊に入った後射撃の練習にも励んだために、両技能ともハイレベルだった。日本の自衛隊員として選抜を受け、80年代に開催された冬季五輪で「バイアスロン」の選手候補になったという。 しかし残念ながら、その冬季五輪の開幕前に彼はインフルエンザに感染して肺炎にかかり、その貴重な出場機会を失った。 一方、兄貴はソ連の来襲に備えた日米合同軍事演習に参加したこともある。 軍事演習の際、軍曹だった彼が率いたグループの成績がとても良かったという。「敵方戦闘員」(アメリカ軍の特殊部隊)を全員捕虜にしたのだ。 そのため、兄貴は米軍のトップから名誉勲章を受けた。そして、しばらくして米国での研修チャンスがあり、米陸軍特殊部隊のグリーンベレーに入って半年訓練を受けたらしい。