【西岡徳馬インタビュー】『SHOGUN』撮影前に真田広之と語り合った「本物のサムライ作品を作ろう。武士道精神の本質を貫いた作品を作ろう」
理不尽なこと、上からの命令には抗いたい
小1のとき、父親の薦めで劇団に入り、子役を始めた。当時から「德ちゃんうまいね」と言われる、人の目を引く子どもだった。 「お婆ちゃんに言う『ありがとう』というセリフがあってね、皆へたなんだよ。それは本気でありがとうと思ってないから。芝居なんて簡単じゃん、本気で思えばいいじゃんって、そのとき思った」 幼少にしてこの感性である。 「俳優のやってることは感性ぐらいしかないですからね。特に僕なんかは勘で生きてるような人間。そんなに頭もよくないし、インテリジェンスも高いわけじゃないし。人生、勘で渡ってきたんだよ」 3年間で演技を休止。中学、高校と進んだが、思春期に入ってからの西岡のやんちゃぶりは、まるで漫画のごときでエピソードに事欠かない。法政二高では野球部に入ったもののトレーニングを嫌った。 「僕は理不尽なことが大嫌いな人間なんですよ。バットを足に挟んでの正座だの、ダービーと称してグラウンドを全力疾走で40分とか。走れないとケツをバットでバーンと叩かれる。今はさすがにしてないだろうけど、そういう軍隊みたいなやり方、上から命令されるのが、ものすごく嫌だった(この話から戦争についての話になり、どこで止めたらよいか迷うほど延々と続いた)。もう性分なんだね。 弱い者いじめも大嫌い。虐められてるやつを見ると、かあっとしてね、あげく職員室に連れていかれて、事情聴取(笑)。そんな毎日だった。うちは親父が厳しい人でしてね、『義を見てせざるは勇なきなり』って、言われて育ったんです」 どこか武士道につながるかのような話である。時を経て、安寧な世を作らんとする殿様に仕える武士を演ずることになったのも、必然と思いたくなるような話だ。 「結局のところ中退となった。喧嘩じゃなく、試験でカンニングを疑われたんです。全成績の点数が没収されて留年が決まった。親が呼ばれて説明を受けてね。途中で父親が苛立って、『こんな学校はやめる。帰るぞ!』と席を立った」 中退した3日後に、父親から「行け」と差し出されたのは“東宝芸能学校”の冊子だった。 「えーっ、芸能学校かと。今考えると、子役をさせたことも含め、実は親父がしたかったことだったかもな、と思えるんですよ。親父は印刷会社を起こして懸命に働いた人だったけど。そんなことで、ともかく通うことにした。そこで帝劇の第1号女優、村田嘉久子さんと出会ったんです。授業中にふっと『あんた、いい役者になるよ』って言われた。いい役者って何だ?と初めて思って、そのとき、芝居で生きていこうと腹を決めたんです」 【プロフィール】 西岡徳馬(にしおか・とくま)[徳は旧字体が正式表記]/1946年、神奈川県横浜市出身。文学座を経て、ドラマ、映画、舞台で活躍する。代表的な映像作品に『極道の妻たち』シリーズ、『浅見光彦シリーズ』『上品ドライバー』『過保護のカホコ』『緑川警部シリーズ』ほか。初の自伝『未完成』(幻冬舎)が発売中。3人の子女と孫が6人いる。 取材・文/水田静子 ※女性セブン2025年1月1日号