1960年代に “魂の探求場” となった「つげ義春」旅ものを作るきっかけは井伏鱒二と水木しげるだった
漫画家のつげ義春は、1960代に入っても細々と漫画を描き続けたが、しだいに娯楽作品を描くのを苦痛に感じるようになっていた。 しかし出版社側からは時代物や推理物、そして新たに人気となって来たSFを描くよう求められ、さらには白土三平やさいとう・たかを、佐藤まさあきといった人気漫画家の絵柄を真似るようにも求められた。 つげもできるだけ注文に合わせようとし、時代ものには、画風模倣も見られる。そうしたじり貧下での努力が続いたのち、つげ義春の漫画が単行本としても雑誌にも見えなくなった頃、長井勝一が、白土三平の協力を得て雑誌『ガロ』を創刊した。 長井はつげ義春にも仕事を頼もうとしたが、連絡先が分からない。よく仕事をしていた若木書房に問い合わせたが、つげはふらりと原稿を持ってくるだけだったので知らないとのことだった。 そこで長井は『ガロ』1965年4月号に〈連絡乞う〉という一行広告を出した。つげはこれを読んで連絡してきた。この年、貸本漫画家の集まりがあり、白土三平や水木しげるときちんと知り合った。白土はかねて、つげの作品に注目しており、『ガロ』への執筆を勧めた。 また苦境にあるつげを励ますために、千葉県夷隅郡大多喜の旅館寿恵比楼(すえひろ)に招待してくれ、半月ほどそこで過ごした。気持ちのいい商人宿で、白土の隠れ家的な場所だったという。白土はそこで『ワタリ』のコマ割りをしており、つげは「不思議な絵」を描き上げた。 つげはここで、白土作品を制作する赤目プロのメンバーとも知り合った。赤目プロのひとり岩崎稔からは、井伏鱒二を読むよう勧められた。これ以降、つげは井伏を愛読し、旅に惹かれるようになり、のちに一連の《旅物》を生み出すことになる。 うらぶれた街の商人宿といった高度経済成長以降の世相とは合わないかと思われる作品は、競争社会と豊かさへの邁進に疑問を抱く青年層に強いインパクトを与え続けることになる。 つげは白土に茸狩りに連れて行ってもらったりもした。つげには「初茸がり」(『ガロ』1966年4月号)という作品がある。祖父に初めて茸狩りに連れて行ってもらった少年の喜びを抒情的に描いているが、そこには白土への感謝の気持ちがにじんでいるように思う。 また「西部田村事件」(『ガロ』1967年12月号)も、この時の思い出が関わっている。西部田村(現在の佐原市西部田・みずほ台)は大多喜町の夷隅川を挟んだ対岸で、実際に精神科病院があった。 堰堤工事跡の穴に片足が落ちて抜けなくなる逸話は、白土が足を取られた出来事がもとになっているが、実際は抜けなくなったわけではなく、また穴の中の水たまりに魚がいて足の裏をくすぐったというのは創作である。 ほかの《旅物》でもそうだが、実際の景色や設備を描写しながらも、出来事はそう劇的なことがあるはずもなく、多くはフィクションだ。初めは井伏鱒二の小説のように、行けば何か起きるのでないかと期待し、何も起きないと「漫画が描けない。旅のもとが取れない」と焦ったりもしたが、しだいに現実と創作を織り交ぜる技術を確立していった。 1966年からつげは、水木しげるのアシスタントをするようになる。密かに期するところのあった「沼」(『ガロ』1966年2月号)が、辰巳ヨシヒロや深井国ら貸本仲間からも理解されず、総じて不評だったことにショックを受けたつげは、当時、創作の自信を失っていた。 水木がアシスタントを依頼したのは、忙しくなったのももちろんあるが、つげの生活苦を察してのことでもあった。 つげ義春の細密な背景の描き方は、水木しげるの作風を引き継いでいる。もともとは手塚治虫の影響で出発したつげだったが、1960年代という貸本漫画退潮期にあって、反時代的気分からも貸本系劇画出身の白土三平や水木しげるの側へと引き寄せられていった。この頃をモデルに、つげはのちに「ある無名作家」を描く。 つげは水木の影響もあって『今昔物語』や『日本霊異記』『聊斎志異』『唐代伝奇集』を読むようになった。 また井伏鱒二はたしかに、つげの気質に合った。水木とは気が合い、いっしょに古本屋廻りをしたりもしたが、いいことばかりは続かず、1967年には水木プロの仕事が増え、自分の作品と並行して描いていたつげは、腱鞘炎を患ってしまった。 水木プロの仕事に関しては、「点描を打ち続けていたアシスタントが、その最中に心臓麻痺を起こして倒れた」などといった伝説もある。何しろあの細密な背景描写なので、妙に説得力がある。 療養目的と井伏文学の影響もあって、秩父や房総、伊豆半島、そして東北の湯治場などを旅行し、1967年後半から1968年にかけて一連の《旅物》を発表した。 この時期の作品は、「山椒魚」(1967)、「李さん一家」(同)、「紅い花」(同)、「西部田村事件」(同)、「長八の宿」(同)、「二岐渓谷」(同)、「オンドル小屋」(同)、「ねじ式」(1968)など、とても充実しており、インテリ青年層や評論家からも注目されるようになる。 紛争世代にとって、白土三平作品は指導理論であり、つげ義春は “魂の探求場” となった。 1950年代、1960年代の日本には、経済優先の政策や米軍基地傘下での偽りの平和に反発し、あえて現実の醜悪面を描くネオリアリズムや、救いのない迷宮的状況を見つめる不条理小説、ヌーベルバーグなどの文化運動があり、それらに意図して呼応する漫画家もいた。 だがつげ義春は、思想的ムーブメントというより、本当に私的現実から湧き起こるものとして描いていただろう。それは思想的指導者としてはともかく、創作者としては驚異的な強みだった。 ※ 以上、長山靖生氏の新刊『漫画のカリスマ 白土三平、つげ義春、吾妻ひでお、諸星大二郎』(光文社新書)をもとに再構成しました。4人の作品と生涯を通し、昭和戦後から現在に至る日本の精神史を読み解きます。