非道な「人体実験」の現場に遭遇…戦争末期、ビルマの野戦病院で医師が目撃した「現実とは思えない光景」
「戦友会」と聞いてピンとくる人は、どれだけいるだろう? 慰霊や親睦のために作られた元将兵の集まりだが、その「お世話係」として参加し、戦場体験の聞きとりをつづけてきたビルマ戦研究者がいる。それが遠藤美幸さんだ。 【写真】日本軍兵士が「死んだら靖国神社には行きたくない」と懇願した理由 家族でないから話せること、普段は見せない元兵士たちの顔がそこにある。『悼むひと 元兵士と家族をめぐるオーラル・ヒストリー』(生きのびるブックス)から、その一端をご紹介したい。世界中がキナ臭い今、戦争に翻弄された彼らの体験は何を教えてくれるのか。 本記事は、『悼むひと 元兵士と家族をめぐるオーラル・ヒストリー』(生きのびるブックス)を抜粋・再編集したものです。
多くを語らない母
2015年4月、拉孟守備隊の遺族の徳永英彦さん(福岡県在住)から出版社経由で封書が届いた。徳永さんの手紙には、1944年10月23日に第56師団の第4野戦病院で戦病死した一色武雄さん(1910~1944年)にまつわる事ならどんな些細な事でも知りたいとの思いが綴られていた。一色武雄さんは拉孟守備隊の補充兵であった(のちに通信中隊に編入)。武雄さんは、徳永さんの母・和衛さんの前夫だった。したがって手紙の主の徳永さんと武雄さんとは血の繋がりはない。いわば義理の関係である。徳永さんは「間接的な親族」と表現されている。 板前だった武雄さんと和衛さんの間には4人の娘がいた。1943年8月に武雄さんは召集され、34歳の働き盛りで故郷に妻子を残して帰らぬ人となった。遺骨は戻ってきていない。4人の子どもを抱えた和衛さんは中国雲南省で夫が戦病死したことなど露知らず、夫の帰りをひたすら待っていた。 「昭和23(1948)年の広報にてただ戦病死のみを伝えられた母の無念を思うと胸が苦しくなりました」と徳永さんは手紙に書いている。官報で夫の戦死を知った和衛さんは、その年の暮れに徳永さんの父・徳永廣助さんと再婚した。子どもたちと生き延びるための決断だったのだろう。廣助さんとの間に二児をもうけ、その次男が徳永さんだった。 徳永さんは子どもの頃、和衛さんから武雄さんの名前を聞いて育った。一緒に墓前にもたびたび足を運んだ。「武雄さんはビルマで戦死した」と聞かされ、母はそれ以上多くは語らなかったが、「戦争があったけぇのぉ」と「靖国神社へ行きたい」と常々漏らしていた。だが再婚して生まれた息子には愚痴ひとつこぼすこともなかった。 1954年生まれの徳永さんには、戦争もビルマも靖国神社もなんとも実感がなく遠い存在だった。どうやって母を慰めてよいのかもわからなかった。和衛さんは昔の家族写真を大事に取っていた。徳永さんは、生前の武雄さんと娘たちと写る幸せそうな母の笑顔がいまも目に焼き付いている。靖国神社に連れて行ってやることもできぬままに和衛さんは亡くなった。徳永さんは、「母はせめて武雄さんがビルマのどこでどのようにして亡くなったのか知りたかったのだと思う」と語った。