【世界の野球アメリカ編(7)】夢を追う最中に起きた、故郷の東日本大震災
「次に結果を残せなかったら、野球をやめる」と決めて再び渡米した色川冬馬さん(2011年当時の映像)
【連載・色川冬馬の世界の野球~アメリカ編(7)~】 2015年から、野球のパキスタン代表監督を日本人の色川冬馬さん(26)が務めている。選手としてアメリカの独立リーグやプエルトリコ、メキシコのリーグでプレーし、その後代表監督としてイラン、パキスタンを指揮した色川さん。これまでの経験を通じて世界各地の野球文化や事情を紹介するとともに、日本野球のあるべき姿を探っていく。
「次に結果を残せなかったら、野球をやめる」
2010年、家族や友人の反対を押し切り、大学を休学してまで挑戦したアメリカ野球。アメリカという巨大な国は「メジャーリーガーになる」と言う弱冠20歳の若者の夢がどれほど「はかない夢」であるか、現実を突きつけた。うれしいこと、苦しいこと、そして悲しいこと、どれほど素晴らしい経験を積もうとも、メジャーリーグという世界には届くことはないだろうと教えてくれた。 それでも、日本に戻った私は、なぜか次の渡航に備えアルバイトとトレーニングを続けていた。翌年の1月から始まるアメリカのトライアウト(独立リーグの入団試験)で結果を残せなかったら、野球をやめる。それだけを考えていた。4月から復学をするか、もう一年休むか、または大学を辞めるのか。決めなければいけない時は、刻々と迫っていた。
入団試験を受けに、大陸を転々
2011年1月、私は再びトライアウトを受けるため、ロサンゼルスを経てアリゾナへやってきた。アリゾナでは、2009年以来の再会となった選手やコーチから「英語も野球も成長したな」と声をかけられ、身体的にも、精神的にもアメリカ野球を楽しめる余裕がでていた。 その年、ペドロ・ゲレーロと言う1980年代にMLBで活躍したドミニカ人の指導者と出会った。アメリカ独立リーグで球団を指揮する予定だったペドロ監督に気に入られ、2月早々には彼のチームへの入団が決まっていた。しかし、待てど暮らせど、ペドロ監督自身の就任が決まらず、話は難航しているようだった。
アメリカにいる間に契約を持ち帰らなければ、野球をやめる。 私は、いてもたってもいられず、メキシコからサンディエゴ、ロサンゼルス、そしてサンフランシスコまで北上しながらトライアウトを受け続けた。契約にはたどり着けなかったが、知り合いのつてを頼りに、各地を転々としていた。