「他人に迷惑掛けない」に疲れた時 生きる仏教的処方箋「喜び」の業
「苦しみの業」か「喜びの業」か 選びようで運命が変わる
仏教にはパーリ語で「ドゥッカ(苦)」と「スカ(楽)」という言葉があります。この世では、必ず誰かのスカは誰かのドゥッカになる関係になっています。 例えば私たち人間は、豚や牛などの肉や魚などを好んで食べますが、それら生き物にとっては捕食されることはドゥッカです。そして突き詰めていくと、私たちは生きているだけで必ず誰かのドゥッカになっています。つまり、自分では人になるべく迷惑を掛けないように生きているつもりでも、誰かの何らかの迷惑になっているのです。 これは、「周囲に迷惑を掛けてはいけない」というのではなく、「私たちの生は、様々な人や生き物たちとの関係の上に成り立っている」と言っているのです。人は一人で生きているわけではありません。それはしっかりと心得ておいてほしいと思います。 それを心得ていてもなお、人に迷惑を掛けないように生きるのが疲れると感じるのであれば、それを特別なことだと思っているのではないでしょうか。人に迷惑を掛けないのは当たり前であって、それに対して称賛や見返りを求める特別なものではありません。 仏教では、行動を起こす時のエネルギーと、その結果を指す「業(ごう)」という言葉があります。他人に迷惑を掛けないような行動を、「誰かに言われたから」とか「評価を下げないように」「嫌われないように」などと我慢しながら仕方なく行うと「苦しみ」の業となります。それではストレスになって疲れ、心を病んでしまいます。 他人に迷惑を掛けないように生きようとするのは大事なことですが、近視眼的な考えになり過ぎるのも考えもの。私たちは自分一人だけで生きているのではなく、多くの人たちの関係の中で生きていて、何かしらの迷惑をお互い掛け合っている生き物です。せっかく努力をしても苦しく報われないのではもったいないと思いませんか。 そこで、自分は他人に迷惑を掛けない行動を自らの意思で行ったのだという「喜び」の業の感覚を持つといいと思います。自ら進んで喜んで行う姿を周囲の人はちゃんと見てくれていますから、やがて良い作用を生むはずです。 業は、他人に迷惑を掛けないような行動をする時だけではなく、仕事や、家庭、友人関係などあらゆる場面でも応用が効きます。「苦しみ」の業で行うか、「喜び」の業で行うか。どちらを選択するかは、もちろん個人の自由です。今日から少しずつ「自らの意思で行っているのだ」と思考を変えていくようにすれば、いずれその感覚が自然と身に付くようになるはずです。 こうした毎日の思考や言動といった生活習慣の積み重ねが、己の人格をつくっていきます。そしてその人格が、自らの運命をつくっていく。そう、実はこれこそが修行なのです。 ものごとを「喜び」の業を持って行うのは、高学歴でなくても、大手企業に勤めていなくても、誰でも平等にできる手法です。ぜひ、他人に迷惑を掛けない生き方をしているということをもっと堂々とおおらかに構えて、「喜び」として取り組んでいってほしいと思います。 (取材・文=尾崎悠子)
大愚 和尚