「他人に迷惑掛けない」に疲れた時 生きる仏教的処方箋「喜び」の業
「人に迷惑を掛けないように」を求められる世の中に疲れた
読者の皆さんは、幼いころから両親や学校の先生から「人に迷惑を掛けてはいけない」と言い聞かされてきたのではないでしょうか。 【関連画像】大愚 和尚、佛心宗大叢山福厳寺住職 「人に迷惑を掛けない」。その生き方は大事です。公共の場で騒ぐ。器物を破損させる……。そういった明らかな迷惑な行為だけでなく、現代はテクノロジーの進化に伴い、インターネットやSNS上などで誹謗(ひぼう)中傷などの迷惑行為も増え、迷惑な行動を撮影した動画が炎上することもあります。 迷惑の種類は時代とともに多種多様になってきています。日常生活の中において、「会社や友人などに迷惑を掛けないよう、不快にさせる失言や行動をしない」「周囲に迷惑が掛かってしまうから会社は休まない」といった話はよく聞きます。会社でも友人同士でも、一番難しいのは人間関係ですから、社会の中で人に迷惑を掛けない言動をするのは、実はとても高度なスキルだといえます。 多くの人間は、自分をこの世で一番大事にしてもらいたい、優先順位を高くしてほしいと思って生きています。そう思う利己的な人たちが集まって社会はつくられていますから、おのおのが自分勝手に主張しては、衝突が起きてしまいます。そこで、社会のルールや道徳を守ったり、周囲の人を不快にさせないよう気遣ったりと、他人に迷惑を掛けないようにするための心構えや、言葉や行動が生まれていくのです。 例えば幼稚園で絵本を読む時間が設けられているとしましょう。小さな子供は、まだ自分のことしか考えられませんから、騒いでしまう子供も当然いるでしょう。そんな時、先生たちは「今はみんなで絵本を読む時間だよ」と、その子供に教えるはずです。他の子供たちが静かに絵本を読む様子を見て学ぶ。これが教育です。そう、他人に迷惑を掛けない行為ができるようになるのは、「大人になる」ということ。そしてそれは特別すごいことではなく、正しく物事を認識し、判断する「智慧」を持って世の中を見れば、至極当たり前なことです。 しかし中には、外側だけ大人になって中身が子供のまま、社会のルールや道徳が守れない人もいます。他人に迷惑を掛けないよう意識して生きている人から見れば、疎ましく思うかもしれません。「自分はきちんとルールを守っているのに」「こんなに気遣いしているのに」などと憤ることもあるでしょうし、人に迷惑を掛けないように生きているのがばかばかしく思え、疲れると感じてしまう時もあるかもしれません。 では、なぜこのような苦しい感情が起こるのでしょうか。それは、他人に迷惑を掛けないような言動を「我慢しながら」しているからです。その根底には、「恐れ」があります。自分では気づいていなくても、「これをしたら相手に嫌われるのではないか」「仕事を失ってしまうのではないか」「評価が下がるのではないか」などという恐れの感情が潜んでいるのです。