バブル期に若者があふれた渋谷公園通り「モノを売るんじゃない」堤清二の消費哲学を具現化した街 ネット通販と高層ビルの時代に目指す姿とは
▽バブル崩壊でグループは解体へ 松本氏は堤氏のすごみを「じつにモノが売れた時代に、モノが持つ意味を考えなければ売れないと力説したことだ」と語る。ファッションショーを企画し、ショーに行くための洋服を売る。「コトを起こしてモノを売る」という手法を確立した。堤氏は文化人と交流し、その中から事業のヒントを得て社員に投げかけていた。最も受け止めていたのは外部のクリエーターで、糸井重里氏の「おいしい生活」といった時代を映すキャッチコピーも生まれた。 堤氏は新しいことを作りあげることが大好きだったが、同時に飽きっぽく、収益に結びつけていくことにも興味がなかったという。バブルを謳歌したセゾングループは多額の負債が重荷となって経営不振に陥り、解体に向かった。松本氏は「バブルの熱狂から冷めるのとともに、世の中を変えていかなきゃいけないんだという頑張りを忘れてしまった」と感じる。 業界の雄だった百貨店の構造変化がそれを端的に表している。全国の百貨店売上高はバブルが崩壊した1991年に付けた約9兆7千億円のピークから、2023年には約5兆4千億円まで減った。店舗数も268から180になった。アパレルメーカーが商品を自由に並べ、売れた分を百貨店側に支払う取引方式が主流になり、百貨店はどこも金太郎あめのような売り場になった。
▽流行発信地の輝きが薄れ、地元は危機感 西武渋谷店とともに渋谷公園通りを象徴してきたのが1973年に開業した渋谷パルコだ。パルコはイタリア語で公園の意味。後にパルコの社長を務めた故増田通二氏は米国のストリートやアベニューに若者が集まっているのを見て、演劇やアートといったカルチャーで人が行き交う拠点を目指した。坂道の名称も「区役所通り」から「公園通り」に変えた。 地元である渋谷公園通商店街振興組合の川原惠理事長は、渋谷パルコによって「公園通りの存在が大きくなった」と振り返る。1988年にはライブハウス「クラブクアトロ」も併設された。 だが2000年代に入り、「ユニクロ」をはじめとしたファストファッションが台頭。ファッション誌が取り上げるスタイルが画一的に支持される時代は終わり、消費は多様化、細分化した。公園通りは最先端の流行発信地としての輝きが薄れ、川原さんは街が廃れてしまうのではないかとの危機感を持つ。