〈泣き歌の貴公子〉林部智史「上手いだけでは歌手にはなれない。新聞奨学生をしながらヴォーカル学校に通い首席で卒業。カラオケバトルで掴んだチャンス」
◆無駄なことは一つもない 番組では、アマチュアに焦点を当てる大会を初めて開催するにあたり、日本全国で歌がうまい人を探しているということでした。 ESPにリサーチャーが来た際、講師の先生が「去年、新聞を配りながら首席で卒業した人がいますよ」と推薦してくれて。僕の新聞奨学生という経歴が「インパクトがある」と注目され、出演が決まったのです。人生で無駄なことは一つもない。そう強く感じました。 初出演時は準優勝に終わったものの、以降も何度も番組に呼んでもらい、2年間で最多出場を記録しました。準優勝ばかりだったので、「無冠の帝王」「勝てない男」という呼び名も。(笑) そこで、「全力を注げ」との恩師の教えを守り、ディズニーを辞めてボイストレーナーとして働き始めました。 同時にセルフプロデュースにも力を入れ、デビューを実現させるために試行錯誤の日々。番組で歌った歌のフルバージョンを自身のユーチューブで公開したり、コンサートを企画して開いたり。キャパ120人ほどの会場がせいぜいでしたが、歌う場が欲しくてライブを重ねました。 現在所属している事務所から連絡をもらったのは、カラオケバトルで優勝した15年、26歳のときでした。 たまたま番組を観ていた事務所の社長が、ある楽曲を歌える歌手を探していると、僕の自作のホームページに連絡をくれたのです。もともとは女性が歌う予定でしたが、テレビで僕の歌を聴いて「声も高いし、この子に歌わせたら面白いんじゃないか」と思ったのだとか。その楽曲こそが、デビュー曲となる「あいたい」だったのです。 こうしてさまざまな縁に恵まれた結果、16年2月に念願のメジャーデビューを果たすことができました。両親と兄姉には本当に迷惑と心配をかけましたが、今は家族みんなで僕の活動を応援してくれています。
◆期待に応えつつ新しい「好き」を探して 「カラオケ番組の人」というイメージで世に出たので、デビュー直後は自分でもどういう歌手になっていくのかまったくわかっていませんでした。不安もありましたが、ワクワクが大きかったと思います。 結局、僕の方向性を定めてくれたのは、コンサートに足を運んでくださるお客さま。人前でいろいろな歌を披露するうち、みなさんが僕に何を期待してくれているのかがわかるようになってきたのです。 そうやって築いてきた今の自分。大事にしているのは、プロとしてお客さまの需要に応えつつ、好奇心を忘れず挑戦することだと思っています。 プロである以上、歌い続けていかなければなりません。それにはやはりお客さまが一番大切。特に僕のコンサートに来てくださるお客さまの大半は年上の方なので、自分の世界観を押しつけすぎてもいけないかなと思っています。 でも、決して受け身の態度ではダメ。そのことは、セルフプロデュースを頑張っていた時期に痛感しました。 これからも聴き続けたいと思ってもらえるように、新しいことにもどんどん挑戦していきたい。そのために、歌をあらゆる角度から好きになることを意識しています。 作詞や作曲をするときも、やり方を定めていません。自分のことを歌詞にしたりしなかったり、ピアノで作ったり、鼻歌から始めてみたりと、いろいろ試しています。 僕の最終的な目標は、「林部智史」というジャンルを築くこと。僕がレジェンドと思う方々――たとえば小椋佳さんやさだまさしさんは、枠にはまらずご自身のジャンルを築いていらっしゃる。そんなふうに、好きなことを突き詰めた結果、僕らしいジャンルを作ることができれば幸せだなと思います。 2024年2月には、初のNHKホールでのコンサートを予定しています。ぜひみなさんにも会場に足を運んでいただけたら幸いです。 (構成=上田恵子、撮影=宅間國博)
林部智史
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