龍馬暗殺から150年、坂本龍馬を斬った男・今井信郎を顕彰する理由とは?
静岡県島田市の初倉地区で、坂本龍馬を暗殺したとされる旧幕臣、今井信郎を顕彰する取り組みが行われている。折しも今年は、坂本龍馬が京都・近江屋で暗殺されて150年。全国で坂本龍馬展が開催される中、同地区では今井信郎を顕彰するのはなぜなのだろうか?
牧之原台地の一角に位置する島田市初倉地区。あたり一面に緑色の茶畑の絨毯が広がる静岡県有数の茶産地だ。幹線道路から外れた、茶畑のはずれにその石碑は建っていた。 石碑には「今井信郎屋敷跡」の文字が刻まれている。石碑の隣には石積みで囲まれた土地があり、その土地が屋敷母屋の跡のようだ。石碑とは別に今井信郎の経歴を綴った碑も建っている。 碑などによれば、今井信郎は天保12(1841)年10月2日、江戸に生まれ、18歳で剣術家、榊原鍵吉の門に入り、20歳にして免許皆伝。講武所師範代を拝命し、文久3(1863)年には横浜に赴き密貿易の取締役に就任した。慶応3(1867)年、江戸に戻り京都見廻役を拝命、同年11月15日、京都近江屋にて坂本龍馬を同志とともに襲撃、殺害する。戊辰戦争勃発後は衝鉾隊を組織して奥州に転戦、函館五稜郭で敗戦した、とされる。
まさに幕末を幕臣として生きた経歴だが、そんな今井信郎の屋敷がなぜ、静岡の島田市初倉地区にあるのだろうか? 地元で会社経営などのかたわら長年、今井信郎について研究してきた塚本昭一さんは「禁固刑になり、静岡藩にお預けとなり、その後、牧之原に入植したのです」と話す。 静岡藩は第15代将軍、徳川慶喜の家督を継いだ徳川家達が初代藩主となり、廃藩置県により現在の静岡県に至る。維新後、多くの旧幕臣が静岡に移住し、牧之原台地に入植して茶畑を開墾し、今日の茶産業を築いた。坂本龍馬を斬ったとされる今井信郎が維新後、静岡の地に移り、牧之原台地の一角に居を構えたのは、時代の流れとして自然のことだったのかもしれない。
「今井信郎は明治11年に初倉の地に入植し、以来40年間、地域の経済、産業、教育、文化に携わり、学校の創設に尽力し、農協の前身の農事会長を務め、初倉村村長にもなった人。この地域の近代化のグランドデザインを作った人なのです」と塚本さん。 屋敷跡を示す石碑は、荒れ放題になっていた屋敷跡を地元の有志らが整備し、資金を集めて平成15(2003)年に建てたものだ。今井信郎は大正7(1918)年に78歳で死去、来年が100回忌に当たることから塚本さんらは今秋、100回忌の行事を予定しており、あわせてアララギ派の歌人、今井邦子が今井信郎の息子の妻になることから、今井邦子の歌碑を新たに屋敷跡に建てる予定だという。 こうした取り組みは、塚本さんをはじめとした有志で作るNPO法人「初倉まほろばの会」によって行われ、塚本さんは同法人の理事長を務めている。今井信郎にとどまらず地域の歴史を調べ、ふるさとシリーズとして書籍にまとめている塚本さん。 今井信郎についてはふるさとシリーズ第9編「白雲の魁」にまとめており、こうした書籍等の収益をNPO法人の運用にあてているという。「地域の歴史、文化を発信して多くの人に初倉について知っていただき、そのことが地域おこしにつながれば嬉しい」と塚本さんは話している。