『虎に翼』寅子モデル・嘉子は名古屋地裁へ転勤。「女性初の判事」になったものの、裁判所には女性を歓迎しない空気が…
◆女性裁判官の転勤と任用 三つ目は、女性裁判官の転勤と任用についてです。 全国の裁判所のレベルをある程度同等に維持するためには、優秀な裁判官がきちんと地方にも配置される必要があります。 嘉子が名古屋に移った頃には、裁判官(特に判事補)はだいたい3年程度で転勤になる仕組みができあがりつつありました。 問題は、まだ数少なかったとはいえ、結婚している女性裁判官の場合です。 転勤によって家族と別居する可能性も出てきてしまうわけですが、最高裁判所は、女性裁判官を特別扱いすることへの批判を受けて、平等に転勤させるようになり、女性裁判官の側もこれを受け入れていました。 しかし、やがてこの転勤を受け入れられる女性だけが、裁判官への任官を希望することが現実になり、1950年代後半には、転勤を命じる際に多様な家庭的配慮を考えなければいけない女性裁判官をそもそも採用したくないと考える傾向が、最高裁判所の中にかなり強く現れてきたようです。 1958年2月には、日本婦人法律家協会会長の久米愛の名前で、当時の最高裁判所長官田中耕太郎と法務大臣唐澤俊樹に宛てて要望書が提出されましたが、そこには、「法務省では二、三年前より女子の検察官を採用しないことに内定し、裁判所でも次第にこれを制限する方針であるという声をきくようになりました。憲法の番人である裁判所や法務省が職員の採用にあたり性別による差別をされるとは到底信じられません。これは司法部内の一部反動的な人々の個人的発言から生じた風説にすぎないとは思いますが、女子修習生がかかる風説に動揺を受け、任官志望につき消極的態度を余儀なくされている事実を見逃すことはできません」と記されています。 この問題は、ずっと後の1970年頃にも再燃しますが、長い年月と困難を乗り越えて、徐々に解消されていきました。
◆名古屋での生活(判事として) 嘉子の職場であった名古屋地方裁判所は、名古屋市市政資料館として現在もその姿を残しています。 1922(大正11)年に当時の名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所として建設されたこの建物は、戦後は名古屋高等裁判所・地方裁判所として、1979(昭和54)年まで使われていました(二つの裁判所は、1979年に現在の中区三の丸1丁目に移転しました)。 嘉子が勤務した頃は、現在の市政資料館(当時は本館と呼びました)を取り囲むように、別館などの建物が多く建っていました。 嘉子の勤務した民事部の判事室は、主に本館の2階にありました。 嘉子は、判事としてのスタートを切ると同時に、裁判所の外でも、以前よりもさらに積極的に活動するようになりました。 名古屋市教育委員会の社会教育委員(社会教育に関して計画立案・調査研究を行い、教育委員会に助言する委員)を引き受けたり、各婦人団体の講演会に積極的に講師として出かけたり、名古屋大学の女子学生たちが、自立したプロフェッショナルとしての生き方を目指して結成した「女子学生の会」にアドバイスしたりもしていました。 この「女子学生の会」の中には、後に弁護士・参議院議員として活躍する大脇雅子もいました。 また、嘉子は、徳島から名古屋に赴任してきた永石泰子判事補を連れて、いろいろなところへ出かけたようです。 泰子は1943年に明大女子部法科を卒業し、戦後に共学化した中央大学で学んだ最初の女子学生の一人で、法学部に在学中の1948年に司法試験に合格し、1951年に裁判官となった、注目される女性法曹の一人でした(なお、当時は女性法曹とは言わずに、「婦人法曹」と言うことが多かったようです)。
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