母の手を振り払って“防空壕”から逃げた、8歳の少年 残った母と妹は、遺体となって河原に並んだ…400人以上が犠牲の“高知大空襲”から79年 87歳の男性が語るあの夜の出来事
テレビ高知
400人以上が犠牲になった「高知大空襲」から4日で79年です。高知市で行われた追悼式典に、当時8歳だった男性が参列しました。空襲で母と妹を亡くした男性が、当時の記憶や平和への思いを語りました。 【写真を見る】母の手を振り払って“防空壕”から逃げた、8歳の少年 残った母と妹は、遺体となって河原に並んだ…400人以上が犠牲の“高知大空襲”から79年 87歳の男性が語るあの夜の出来事 1945年7月4日、高知市上空に飛来したアメリカ軍のB29爆撃機が多数の焼夷弾を投下。まちは火の海に包まれ400人以上が犠牲となりました。 高知市は、犠牲者を追悼する「平和祈念式」を2005年から開いていて、4日は、空襲を経験した人や犠牲者の遺族ら60人ほどが参列しました。 ■高知市 桑名龍吾 市長 「改めて、戦争のない国、平和な高知県、安全な高知市を作ることを、ここに決意します」 空襲で犠牲になった大勢の人の遺体が仮埋葬されていた場所に、「平和祈念碑」が建てられ、毎年、犠牲者が弔われています。参列した人たちは、「祈念碑」に鏡川の水をかけたり献花したりして、犠牲者の冥福を祈りました。 小学2年生の時に高知大空襲を経験した、岡村正弘(おかむら・まさひろ)さんです。その日、家で寝ていたところ、「叫び声」で目が覚めたといいます。 ■8歳の時に高知大空襲を経験 岡村正弘さん 「寝よった時、サイレンではなく、『空襲警報!』と。目が覚めたら部屋の中が明るくて。『ありゃ、おかしい』と思って外を見たら、真夜中やのに、街がずーっと昼間のように見えて…」 焼夷弾が降り注ぐ中、岡村さんは母と妹とともに、懸命に防空壕へ避難しました。 ■岡村正弘さん 「(鏡川の)向こう岸から対岸を見たら、建っちゅう家が全部燃えゆう。その火の大きさ。その家も、その向こうも、全部が燃えゆうき。真夜中やけんど、昼間のように明るかった。そして(米軍の)飛行機が、火に照らされて黄色く見えた」 しかし、避難した防空壕では… ■岡村正弘さん 「(防空壕の)中でじっとしよったけどね、7月4日の晩は暑うてね、きょうも暑いですけど。暑うて、いっぱいの人で、息苦しゅうなってきてね、『ここで辛抱せぇ!』と言われても、よう辛抱せんなってね…。それで私は、母の手を振り切って、外へ飛び出た」
【関連記事】
- “特捜戦隊デカレンジャー”デカブレイク役を襲った病、そしてデカピンクとの結婚と移住…放送から20年、6人の戦士が新作映画で再び集結
- 病魔に襲われたデカブレイクとの結婚と移住、そして今は弁当店オーナーに…デカピンク役の「想定外」な人生 “特捜戦隊デカレンジャー”
- 『娘の遺体は見ない方がいい』と言われた母は「会います」と答えた…被害者遺族の“生き方”と“願い”
- 船は全速力で衝突し、4分で沈んだ…修学旅行中の小中学生100人が犠牲 “紫雲丸事故”から69年「生き長らえて申し訳ない」生存者が語る“命の重み”
- “天国へのパスポート”になってしまった遺影 「迎えに行った娘の亡骸は冷たく…」修学旅行生ら28人が犠牲になった「上海列車事故」から36年