<上海だより>文芸的な道、紹興路を歩く(2)~日本人の銅像を尋ねて~
前回に引き続き、上海で最も文芸的な道と言われる紹興路を歩いてみます。紹興路のちょうど中間あたりに、紹興公園という小さな公園があります。園内では、中国的な石造りの庭園を楽しむこともできますし、晴れた日の昼間には退職後のおじさん達が麻雀やトランプを楽しんでいます。そんなのどかな公園の中央に位置する一角に金色の銅像があるのですが、よく見てみるとこれが実は日本人の銅像なのです。中国で日本人の銅像とはなかなか不思議な感じですが、誰かといえば梅屋庄吉という人の銅像です。
長崎から上海への贈り物
1869年長崎に生まれた梅屋庄吉は、貿易商として香港に滞在していた際に孫文と知り合い彼の革命思想に共鳴し、辛亥革命のための資金援助から、宋慶齢との結婚の仲人役も務めるなど、公私共に深い関係だったようです。「君は兵を挙げたまえ。我は財を挙げて支援す」という梅屋庄吉の言葉は今でも代表的な言葉として語り継がれており、彼が孫文に支援した金額は現在の価値で1兆円にものぼるとされています。また、日本帰国後に現在の日活の前身である「M・パテー活動写真商会」を設立したことでも知られています。
この銅像の下には中日英の三カ国語で記された碑文があり、梅屋庄吉の故郷である長崎から上海へ2011年に寄贈された旨が記されています。また、1929年に梅屋庄吉がこの公園の付近である瑞金二路を住居としていたとされており、この地域が彼にとってゆかりがあるため銅像がこの公園に設置されたのでしょう。
日中で送り合う梅屋庄吉と孫文の銅像外交
梅屋庄吉と孫文の銅像交流は意外と多く、まず孫文の死後、彼の功績を讃えるために梅屋庄吉は自ら1億5千万円の費用を持ち出し4体の孫文銅像を中国に贈呈しています。その後、上海市は孫文の銅像を長崎市に寄贈しています。それを受け、この紹興公園に梅屋庄吉銅像が長崎市から上海市へ寄贈されました。実は、その後さらに2013年には再び中国から長崎に対して梅屋庄吉夫妻と孫文の三人の銅像が寄贈されています。 中国にある日本人の銅像といえば、農学者・園芸学者の遠山正瑛が内モンゴル自治区の砂漠でポプラの植樹などを行ったことで中国政府により銅像を建てられているのが有名ですが、非常に稀少なケースです。 紹興路で文芸的な空気を楽しむ一方で、希少価値の高い中国の日本人像を眺めながら、忘れられがちな日本と中国の深いつながりを再発見することができるのが紹興公園です。