ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (28) 外山脩
一方で水野は、日本を出る直前に雇った上塚を、皇国殖民のブラジル代理人に据えた。その給与は月に四〇〇ミル、後で五〇〇ミルになった。 南樹は上塚と同年輩で、ブラジル経験は二年余の長があった。それなりの自負を抱いていた。どう思ったかは、容易に察しがつく。 南樹は、こうした個人的不満に加えて、水野に公憤を抱くようになった。ファゼンダで次々起こる騒ぎが、自分の報告を水野が握り潰したことに、端を発していたからである。 我慢ならなかったのであろう、通訳の仕事を辞めてしまった。如何にも嫌気がさした……という風な辞め方であった。その後サンパウロに戻って、フロントンという賭事にのめり込む。 外見は逞しくなっていたとはいえ、少年時代の初恋の相手をいつまでも懐い続けるような繊細な性格であり、無理もなかったろう。彼もまた貧して夜は空き家を探して潜り込む……といった類いのルンペン生活に陥る。 そのうち「移民会社なんか、ろくな奴はいない。第一に水野がそうだ」と、口にするようになる。 ただ、後に出版した二巻の著書の中で、まだ水野を評価していた頃の観方を一、二行であるが記したり、別の所で批判したりしている。この辺は読者を混乱させかねない。 しかし結局のところ、前章で記した一九六八年の受勲辞退に関する筆者の取材の折「移民屋」と罵ったのが本心で、かつ最終的な水野観であったろう。 水野に踊らされた人間は、まだ居た。隈部三郎一家である。 この家族については前章で触れたが、頼みの綱の杉村公使の急死にも関わらず渡航、サンパウロ市内で煙草巻きの内職で、糊口をしのぐところまで窮した。 隈部は鬱屈の極に陥っていた。 そこに水野から植民地建設の誘いがかかった。 水野は一九〇七年の二回目の訪伯の折、リオ州政府と、植民地の建設契約を結んでいた。 予定地は州内の北東部、海岸線沿いに位置するマカエにあった。マカエは現在は中都市になっているが、当時は町ていどの規模であった。植民地用の土地は中心部からはずっと離れた辺鄙な処にあった。 その入植者として、水野は隈部一家と同志の青年たちに、白羽の矢を立てたのである。 誘いを受けたとき、隈部の落ち窪んだ目が光った。南樹の表現を借りれば「かつて日本人によって成されたことのない外国に於ける植民地建設を、私がする━━と、自分の言葉に陶酔しつつ」現地へ向かった。 それに先立ち、隈部は入植趣意書なるものを作成した。その末尾には、 「…(略)…一行の成否は第一回の植民の盛衰に関し、第一回の植民の盛衰は日本植民の成否に関し、日本植民の成否は日本が戦いに依而収めたる國光の消長に関するところ少なからず…(略)…」 とあった。 文中、一行とは隈部一家と青年たち、戦いとは、日露戦争のことである。つまり、この植民地の建設は、祖国の名誉にまで影響すると思い込んでいたのである。 どうもオカシイと気づいた南樹が、その入植を止めたが、隈部は聞かなかった。 これが一九〇七年末で、時期的には笠戸丸着船の半年前のことである。夫人と未だ十五歳以下の娘四人、息子一人を伴い、鰐の泳ぐ河を船で遡り、その土地に着いた。同志の青年の内、同行したのは安田良一、有川新吉、西沢為蔵の三人だけだった。 しかし開拓には資金が要る。アテにしていた州知事は政争で姿を晦まし、水野の皇国植民は倒産してしまった。(当時の州の首長は、知事ではなく統領と訳す資料もある。本稿では以下、知事で統一する) 土地も魅力は無く、青年三人も見切りをつけて去った。 歳四十を過ぎた法律家と女子供だけが残った。これでは、どうにもならない。 それでも一家は数年、頑張った。途中経過は略すが、結局引き上げた。 その後、隈部三郎はリオやその近くで、造船会社の守衛やガス会社の倉庫係までした。が、不運は続き一九二六年、サントス出港の沿岸航路の客船から、身を投げて死ぬ。