〝孤独死〟した準主犯格B以外にも…『女子高生コンクリート詰め事件』犯人が生涯背負う〝重い十字架〟
3年前に「孤独死」していた
《女子高生コンクリート詰め殺人事件の準主犯格のBが3年前に孤独死していた》 ’25年も明けたばかりの1月6日、北海道放送が衝撃のニュースを報じた。 同局によると、《Bは’22年7月に自宅のトイレのなかで倒れているところを母親が発見。すでに息をしていなかった》という。 【ネット民驚愕】すごい…15歳の少年を従えて渋谷を暴走した29歳容疑者、戦慄の素顔 『足立区綾瀬・女子高生コンクリート詰め殺人事件』が起きたのは、1988年11月25日のことだ。当時16~18歳だった少年4人が、埼玉県内の高校に通う女子高生(当時17歳)を誘拐・監禁。約40日間にわたり昼夜の別なく暴行・凌辱を加えた結果、被害者は衰弱し絶命した。さらに少年たちは、盗んだドラム缶に被害者の遺体を入れてセメントを流し込み、放置したのだ。 Bは懲役5年以上10年以下の不定期刑の判決を受け、1999年に出所した。一時はコンピューター関連の仕事に就き、結婚もしていたが、’04年5月に起こした逮捕監禁致傷事件で再び服役。’09年に出所した後は埼玉県内のアパートで一人暮らしをしていたようだ。亡くなった当時は51歳だった。 事件直後に現場を取材した本誌記者が、当時のBについてこう振り返る。 「小学校では地元野球チームでレフトを守る野球少年。中学校では陸上部に所属し活躍していました。体の大きいスポーツ少年である一方、頼み事をされると断れないおとなしい一面もあったといいます。 しかし、私立高校に進学したものの1年の2学期には辞めてしまいました。 その後、居酒屋や運送業などアルバイト先を転々とするなかで、主犯格のAと出会ったのです。Aと出会ってからは無免許でバイクを運転するなど、非行を繰り返すようになったといいます。ただ、手下のように使われていたのか、AにペコペコするBの姿を多くの同級生が目にしていました」 北海道放送によると、《Bの知人は、飲みに行ったときなど、Bを連れ歩いた先々で『こいつはコンクリート事件の犯人だ』と言いふらしていた》という。 やはり「コンクリート事件の犯人」という過去は、簡単に隠しきれるものではないのだろうか。自宅が事件現場となったCにも、その過去は付きまとっていたという。 ◆常に「自分は犯人だ」という思いが 全国紙社会部記者が出所後のCについて語る。 「1991年7月に、懲役5年以上9年以下の実刑判決を下されたCは出所後、都内のムエタイジムに所属し、プロとして大会にも出場していました。当時は働きながらジムに通い、週末は綾瀬駅前にあったムエタイの試合を見ながら食事ができるタイ料理店のリングに上がるなど、熱心に取り組んでいたようです。しかし、ある時期からそのムエタイジムに『コンクリート事件の犯人が所属している』とクレームが寄せられるようになり、いつのまにかCは姿をくらませました。 ムエタイジムにクレームを入れた男性に話を聞くと、『インターネットのまとめサイトを見て気づいた。Cは名前もそのままだった上、顔も写真と一致したので、そんなヤバイ奴を試合に出すなと電話したんです』と話していました。 そもそも事件を起こした綾瀬で試合に出ていたわけで、地元の不良たちの間では、『コンクリート事件のCが帰って来てるぞ』とすでに話題になっていたということです。 中には『地元の評判を下げやがって、絶対に許さない』と、Cを探して店の周りをウロウロするような輩もいたそうで、それもCが姿をくらませた理由のひとつかもしれません」 Cは’18年8月に埼玉県川口市の路上で男性を刺したとして殺人未遂の疑いで逮捕され、その後、傷害罪で起訴されている。 「Cには、『自分はコンクリート事件の犯人だ』という思いが常にあったのではないか」 そう語るのは、当時、公判を取材した全国紙の記者だ。 「公判のなかで、Cは『自分は刺していない』と否認していました。さらに、『これは少年法改正を狙っている警察の陰謀だ。更生の余地がないと言いたいんだ』と持論を展開していました。そう考える理由を問われると、『私は10代のころ、日本中を騒がせるような事件を起こしたからです』と供述しました。 自身がコンクリート事件の犯人だから、警察は不当に重い罪を着せようとしている、と言いたかったようです。具体的な事件名には触れなかったものの、Cの口から直接、コンクリート事件をにおわせるような発言があったことに驚いたことを覚えています」 その後、Cは有罪判決を下されている。 「史上最悪の少年事件」ともいわれる『足立区綾瀬・女子高生コンクリート詰め殺人事件』。孤独な最期を遂げたBもそうだが、犯人たちは、いつまでも「あの」事件の犯人だという〝重い十字架〟を背負って生きていくのだ。
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